思わず六百号の記念の作品に「破顔大笑」と書いてしまった。今まで自作を自宅に飾らないことを心に決めていたのに、璞社書展終了後は我が家の玄関に掛けることにした。 数少ない私の自慢話の一つに「書源」の創刊号から編集に関わって来 […]
創刊以来初めて他人の文章を使わせてもらう。巻頭言を小坂先生が最後に書かれたのが昭和63年4月(256号)。その後は中野南風、加登亙川と私の三人が約三年間分担。私だけとなったのは平成3年から。会長就任内定は多分元年6月ごろ […]
一瞬あの時代へ戻ったかのようだった。佐賀高校の書道部室に五、六種の月刊誌が無雑作に置かれていて、その中に津金寉仙の「書藝大觀」があった。他に関西書壇を包括した「書鑑」「書芸公論」、広島重本芸城の「書林」、長崎原田草雲の何 […]
野中正陽兄が亡くなられたことを一日遅れで知った。私が迂潤に携帯を自宅に置いたまま三省会のパーティーに出かけていたので私に責任がある。享年八十三。 正陽兄は高校の一年先輩で弟の朱石さんは同じ高校の三年後輩。このお二人の伯父 […]
四月十一日、日本書芸院創立七十周年と大阪市立美術館創立八十周年の共同企画展「王義之から空海へ」を約二時間ほど駆け足で見て、後日もう一度今度はゆっくりと見たいものだけ見て来た。 見ながら考えたこと。 ○当時書記官が自由、適 […]
「散髪屋の隣りで座っていた人はあの人ですか」行きつけの喫茶店「梵」のママさんが、その人が帰ってしばらくしてから私にそう言った。口に手を当てておかしそうに、あの人床屋の中でどこを散髪しに来られたんですかねと言っていたらしい […]
東京一極集中はいけない、日本のためにいけない、とはもう随分前からいわれてきている。関西のひがみではなく、今は東京が潰れれば日本はひとたまりもない。この中には地震も津波も少子化も全て含まれている。 ずっと前、ふと見た日経新 […]
近年作品づくりにこんなに苦労をしたことがない。終日書けどさっぱり出来ない。「作品」ではなく「記念碑」を意識するからで、原因はわかっているが胸が晴れない。依頼は十日ほど前だったと思う。正式には一月二十七日。 「佐賀県立佐賀 […]
習近平の毛筆の字を見たいとどこかに書いたら実際見せてくれた人がいた。その新聞の小さい切り抜きを貰ったのに(大切にどこかに保管していたのに)今懸命に捜しているにも拘わらず見つからない。ここ数年捜しものばかりしている。そんな […]
東京の会場は今年から上野の松坂屋から日本橋の高島屋へ移った。それと第六十回の記念を機に歴代出品者の中から出品回数の多い十五名を選んで各一点ずつを陳列したことも重なってか、入場者が今までにないくらい多く、身動きがとれないほ […]