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衝撃の再来

一瞬あの時代へ戻ったかのようだった。佐賀高校の書道部室に五、六種の月刊誌が無雑作に置かれていて、その中に津金寉仙の「書藝大觀」があった。他に関西書壇を包括した「書鑑」「書芸公論」、広島重本芸城の「書林」、長崎原田草雲の何とかいう雑誌、それに熊本黒木拝石の「書学」—もっとあったかもしれぬ。昭和二十八年、私の高二のときのことである。ふと、一体誰が誌代を払っていたのだろう—と今ごろになって思っている。呑気な話。

七月中ごろに津金孝邦先生のご厚意だと思うのだが芸術新聞社から「津金寉仙」が送られて来たのである。
あのころの津金寉仙の作品は全くの衝撃以外の何ものでもなく一も二もなく憧れた。こんな書きぶりもあったのか—、しかしこれは私には真似はできないと、そのとき直感した。多分生涯できないと。常識を完全に覆す書なのである。
先日書いた野中正陽兄はいつごろ入門されたのだろう。もしそれが昭和三十年だとしたら存命中の寉仙に指導を受けられたのはわずか、四、五年ということになる。書作の変化はこれからという五十九歳で早逝された。書きながらどんどんイメージが拡がっていく感じで、次の点画がどこから始まるのか、それを自身が楽しんで—ある意味筆まかせのところがすばらしく面白いのである。

現在の私が門人に常々いっていることとは真反対の筆遣い、常識など不要のもの—。ことばをかえると指導する気が全く感じられないというか、自由そのもの—。厳格な書法で当時一世を風靡していた松本芳翠が師匠であったこと、同門に田宮文平の父である中台青陵もいて—。お二人とも何歳ぐらいで自由に目覚めたのか。

遠くまで見えていると思っていたフロントガラスにすごい罅がはいった感じが今している。それは高二で受けた衝撃を再現していただいたようで「感謝」のひとことである。
津金孝邦先生ありがとうございました。

江口大象(書源2016年10月号より)

 
   

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