5月21日自宅での稽古を終わって夕食。今日は疲れているだろうし、時間も遅いからといって寝室にはいったのが9時過ぎ。横になるだけでこんなに早く寝られる筈がない。 何となく「報道ステーション」を見ていたら「老衰末期の高齢者 […]
学生時代の恩師田遽古邨先生は常に伝統の継承は筆遣いの継承であるといっておられた。 筆遣いを大きくとらえれば筆意。しかしねえ、意識して出す筆意は見られたものではない。あれこれ考えながら書く書作品は、たとえ面白くても低劣。 […]
近年書道界は正統派の元祖王義之さん顕彰の行事でわき返っている。わが日本書芸院も何かしら考えているようで、もう漸く続きそうである。 特に半年ほど前の東京国立博物館の「書聖王義之」は、直前に「大報帖」とやらが突然出て来て、 […]
中国人がそうでもなかろうに、だとしたら日本人の私が中国の景色を見て育ったからそうなったのか。ともかく私は根が茫洋としている。 人生どうでもいいことが多過ぎることのように思えて、たいていのことには文句を言わないことにして […]
昨年12月22日、読売新聞大阪本社版の追悼抄を見る。10月30日に亡くなった藤本義一のことが出ている。テレビを見ているだけで何となく波長の合う人だなあと思っていたが、私が大阪を好きになるきっかけになった人でもあったよう […]
先月、普通の字を普通に書いて奥深い書の根源に導くのが書家のつとめではないか、書人のつとめではないのかなどと偉そうなことを書いたのであるが、今回はそんなことを何も感じない現代の書をやらない人のことについて。特に若者、中で […]
たとえば傅山を勉強していたとする。その傅山が書いた崩しが絶対正しいかどうか。傅山でなくてもいい、趙之謙、張瑞図、八大山人も干右任も—-。かといって宋以後は安心できるか。いやいや宋の三大家だって怪しい崩しは山 […]
その日も雨であった。私は数10年前のある日、日曜ではなかったと思うある日、学校を欠勤して、朝から晩まで日展出品作品を書いていた。くたくたになり、これで200枚目ぐらいかなと思いつつ、不満の残る最後の作品に印を押そうとし […]