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追悼 藤本義一

 昨年12月22日、読売新聞大阪本社版の追悼抄を見る。10月30日に亡くなった藤本義一のことが出ている。テレビを見ているだけで何となく波長の合う人だなあと思っていたが、私が大阪を好きになるきっかけになった人でもあったような気がしている。

 当時私は出身地の佐賀と東京にしか親戚はいなかった。その東京の親戚や大学時代の友人が引き止める中、3~4年もしないうちに戻って来るからといって、師匠の小坂先生だけを頼りに全く知らない土地の大阪へ旅立った。
 それからすでに55年、どっぷり大阪に浸っている。そして年を増すごとに大阪が好きになっている。初めて大阪駅に降り立った初日はまるで吉本新喜劇の中にいるようであった。その足で小坂先生の梅田教室(大阪駅付近をうめだという)へ行った。カバンひとつであった。ちょうど阿部醒石氏の作品の批評をしておられるところで、それがコテンパン、まるで吐き捨てるような酷評であった。
 雲の上の存在だった副会長の作品を前に「こんなことではどうしようもない」といった意味の叱責のことばをいきなり聞いて、大変なところへ来たと、ちょっぴり後悔をしたが、教室を済ますと先生は近くのそば屋さんで、二人だけの食事をさせて下さった。その日の晩からしばらくは泊まるところがなくて先生のお宅に泊めていただいた。荷物は何もない。ただカバン一つだけ。私のあと先生がそんなことをさせた人を見たことがない。あたりまえである。ともかく世間知らずの私は、教員試験にパスさえすれば下宿も就職先も決まっているものと思っていたのである。呑気なもので今から考えると無知そのもの。それから後の話は長くなるのでやめる。

 今は大阪ほど住みよいところはないと思っている。まさに住めば都。もったいぶらない、温かい、飾り立てない、本音をいいたがる、上品ぶることをいやがる、東京へのしずかな対抗意識–。この辺のことを藤本義一はすべてわかっていたのではないか。あの表情がそれを物語っている。
 ときには顰蹙を買う大阪のオバさんも、常に怖がられるナニワの姉ちゃんも今では心から愛している。教員になりたてのころの2年目、大阪に溶け込もうと心に決めて、勇気をふりしぼって大阪弁で授業をしたところ、生徒から「先生ムリしなくていいよ」と。その教え子達ももう70前後になっている。

 大阪の欠陥は文化の匂いが極めて少ないことだろう。彼は脚本家として売れたが、脚光を浴びたのは深夜番組の「11PM」での司会者としての絶妙なしゃべりではなかったか。しかし彼はもっと深いところで人間を見ていたような気がしている。

江口 大象 (書源2013年4月号より)

 
   

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