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シーズンオフ

璞社書展や日展の作品作りが終わると、三省会書展の制作は残っているものの、何となく今年の制作は一息ついた気分になる。皆さんはいかがでしょうか。

さて、今年はたくさん字(書)を書かれたでしょうか。小坂先生の没後、江口先生を中心に編纂された『小坂奇石の生涯』の(思い出すことども)は小坂先生の書に対する見識、お人柄の一端を偲ぶのに大変興味深い逸話がたくさん載っている。日く、先生「これは何校稽古したんじゃ。」弟子「十枚くらいしか書けませんでした。」先生「わしは、五十年、六十年勉強した目で添削をしとるんじゃ。失礼と思わんのかね。」同様の話で、先生「これは何枚稽古したんじゃ。」弟子「……」先生「今日は帰ってくれ。」という具合である。
「何枚書いてもダメです。私には書の才能がないと思います。」また「私の作品良くないですよね。どうしたら良いか教えて下さい。」というような事を言ったり、聞いたりすることはないだろうか。

小坂先生は郷里徳島から大阪に出てきた二十七歳ころから、十年間映画も芝居も見ずに書に精進した。また、戦時中はゲートルを巻いたまま、空襲に備えて暗幕がわりに掛け軸を黒く塗りつぶした部屋でひたすら臨書に没頭した。また、江口先生は、中学生の時に徹夜で顔真卿の争坐位稿を仝臨して翌日書道の担任の先生に見てもらったとの事である。先述の『小坂奇石の生涯』や江口先生の『江口大象 書の歩み』展の図録をお持ちの方はもう一度見てみよう。圧倒的量の作品が生み出されていることを再確認されるであろう。これらは、作品として発表されたものだけであり、それも一部である。作品を生み出すまでの過程では夥しい質量両面の努力精進がなされたことであろう。
生まれつきはあるにしても人それぞれ才能、天分はある。それを如何に引き出さすかは指導者と本人の研究、努力の結果であるとも小坂先生も言われている。人は誰しもよく見て貰いたい、誉めて貰いたいという気持ちがある。最近は褒められて伸びるタイプです、と自称する言葉もある。しかし、はとんど書いていない作品でそれを求めても所詮無理というものであろう。毛筆を使いこなして良い線を引く為には相応の修練、年月が必要である。また、品格のある形は歴史をくぐり抜けてきた古典や師匠、先輩の造形から学び取り自らのものにしていく他はない。量を書くと言っても、ただ漫然と紙を費やすのではなく、一枚毎に自分なりに分析、改善を加えつつ書くのである。それから、師や先輩のアドバイスを受ければ一段と効果は上がるであろう。

一般論であるが、上手な人はどたくさん書いている。弟子より師匠がたくさん書いている。年齢は関係ないとは言わないが、年齢のせいにしてはいけない。年齢を重ねても努力し成果を上げている人もたくさんいる。人にアドバイスを求めるのも大事だが、自分で自分の弱点を自覚することが大事である。これも一般論だが、個人差(それこそ努力の差)はあるが、初歩から始めて書源誌の競書写真版に一度ならず掲載されるようになったり、公募展に入選するには少なくとも三~五年かかるのではないだろうか。戦後、書で最初の芸術院会員になった豊道春海は修行時代楷書のみで十年を費やしたという。何事にも速成を求める時代ではあるが、「急がば回れ」で臨書学習を含めた着実な日々の努力の積み重ねが大事だと思う。
ここまで書いてきて、すべてが我が身に降りかかるところに巻頭言を書く辛さがある。今日まで書いてきた量の何と少ないことか。自省し、シーズンオフを有効に使い来るべき春に備えたいものである。

佐藤芳越(書源2018年10月号より)

 
   

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