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臨書の意義と目的

最近、書源臨書の部で江口先生が書かれている「王義之尺牘」の臨書が原本と違うが何故かという質問を受けた。江口先生は「臨書をする時には見える通りに書くと間違いになることもある」と言われている。

王義之の現存している筆跡は、すべてが写しである。たとえ肉筆の原本があったとしても手紙を何枚も書き直したとは考えられない。そうすると王義之自身が書き損じた箇所があっても不思議ではない。それを生真面目にどこまで真似るべきか問われる。あやふやで誤解を招くような所は正してしかるべきであろう。江口先生の臨書のあり方はそれを踏まえたもので、特に書源に掲載する手本としての臨書は習う者が誤解を招かないように、正した形を示されている。ただし江口先生の手本だけを見て習っても、それは臨書とはいえない。やはり原本を充分に観察し確かめながら臨書すべきだろう。その中で疑問点や、理解し難い箇所があれば、先生の善かれた臨書手本で補うという形が望ましい姿であろう。「今、私は〇〇の古典を習っています」と言いながら原本は持たず先生の手本だけで習っている人は真の臨書とは言えないのである。

学ばねばならない古典は山ほどある中で、何の為に臨書をするのかを明確にすれば的を絞ることが出来る。たとえば太細の変化が乏しい人は「米帯」から抑揚のある筆法が学べるだろうし、字形の変化や流れは「王鐸」から学べるだろう。王鐸が出てきたので触れておかねばならないことがある。年配の方には王鐸は古典ではないと言われることもある。そもそも「古典」の定義は、昔は「唐代以前の碑や法帖などの古人の筆跡」という風に時代を限定していたようだが、それが「宋の米帯まで」入れても良いとか、現代では明清代まで含めた形になったりと時代的には曖昧になっているようだ。私自身は、そういったことが分かった上で、明清代の筆跡であっても得るものがあれば学べば良いと思っている。話が逸れたが、臨書をすることの意義や目的をはっきりさせれば自ずと習うべき古典や方法が見えてくるのである。

いずれにしても、臨書をする際、そっくりに書くことも大切かもしれないが、それが最終目標ではない筈だ。我々は書作家である限り、自身のオリジナルな作品を書くことこそが最終形だと思う。そう考えると、臨書からは正しい点画や字形、さらに筆法を学び、そして同時に線質の探求が必修となる。小坂奇石先生が「線の行者」と言われたように、その流れを汲む我々は線の鍛錬にも全力を注ぐべきだと思っている。

山本大悦(書源2018年8月号より)

 
   

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