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日本の文化

三月三十一日プロ野球が開幕した。昔はたまに甲子園までプロや高校球児の試合を見に行っていたのに、もうそんな元気もない。海外旅行と同じくもうやめたと宣言している。

日本人は大リーグに行ってもグラウンドで唾を吐かないのではないか。アメリカの野球人だけが、一番目立つピッチャーマウンドの上でさえ遠慮会釈もなしに平気でペッペッとやっている。ガムも噛んでいますなあ。ガムは監督自らがやっている。ガムを噛んでいると緊張しないなどと言いながら・・・。ラグビーやサッカー、ましてテニスなどはやらない。アメリカだけが、もしかしたら野球だけがやっていそう。それを日本がちょっと真似。

少し問題はズレるがトランプの即断即決も見ている方には心地よいが、あれだけ何の審議もせずに「即断」は日本の文化に合わないように思う。日本は「曖昧」、よくいえば余情の文化。何年前だったか朝日新聞に奈良の興福寺貫主多川俊映さんが、外国人から見た目本人の特質を五つ書いていて、その一つが「あいまい、余情」であって他に「はかなさへの共感、清潔」などもあったと思う。試合が終わって「グラウンドに一礼」もいい。あれはアメリカではしないのだろうか。たとえ学生野球でも・・・。相撲や柔道などは典型的な日本のスポーツである。

書もその中の一つ、押しも押されもせぬ立派な日本の文化である。子供が初めて習いに来たらまず姿勢、筆の持ち方、そして挨拶。字なんてはじめはどうでもよろし。そのうち懸命に書くようになります。
どこかで読んだことがあるように思うが、小学校の低学年から筆を使った授業が必習になるらしい。「水筆」であるのが残念だが、それでも幼少時から「日本の文化」に触れさせておくのは重要なことである。テレビなどで洋紙にマジック、黒板にチョークといった風景をよく見かけるが、少しでも毛筆を習ったかどうかはちょっと見ただけですぐわかる。

しかし深く考えなくても、この三千年ほどの文学の変遷は甲骨文はさておいて「省略の歴史」だと見ていい。纂書から章草、草書、楷書、行書が生まれたのも、速く美しく書こう、から始まっているのは間違いない。それに「東洋的な美意識」が加わったと見ていい。

つい最近、萱原書房主導で「三国展」が韓国で行われたが、日本最年少の阪野鑑君から送られて来たひどく重い作品集を見ていると、中韓の書人も日本同様楽しく暴れ回っている。ハングルでも筆の線を楽しんでいる。
各国二十五名。四十代以下でも各々五、六名はいっているようだ。この層が子々孫々末永く続き「筆技」が受け継がれますように。

メールも歴史的に見れば「省略」の一環だろうが、手書き文字には魂がこもる。それを子供のころから教えたい。東洋の良さ、日本文化のすばらしさを感じられる子供を育てたい。

江口大象(書源2018年7月号より)

 
   

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