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昔の話(4)

泣く子を黙らすために吾が子の口を塞ぐ、敵に見つかればそれまでで、逃避行中の小さな一団は皆殺しに遭う。そんな話は日本に引揚げてから何度か聞いた。気がついたら吾が子は死んでいたということもあったろう。満州(今の遼寧省)の奥地からの引揚げ者は海岸まで辿り着くのに約一年かかったとも聞いた。少し年長の足手まといになる子供は現地人に請われて泣く泣くそのまま預けて来た人も多かったらしい。今の北朝鮮からの引揚げもそれに近い難難を経て日本に帰って来た。特に山越えが大変だったらしい。これは先輩ご本人から聞いた実話である。

その点天津住まいのわが家は、苦労といえば引揚げ船の順番待ちのために約一か月ほど集結所に釘づけにされたことぐらい。波止場近くの広っぱに五十ほどのテントが張られて、一棟に二、三十家族が詰め込まれ、食料は一日麻袋一杯のカンパン。それを百人ほどで分けて食べる。それだけ、水はどうしていたんだろう、記憶なし。
この程度の苦労は苦労とはいえん。順番が来て乗船、その前に手荷物検査、何を取られたか覚えていないが分捕り品の山の間を抜けて船へ。
船は海軍の上陸用舟艇。跨げるような低い仕切りはあったと思うが、大きな仕切りなしのガランとした船だったと記憶している。そこに詰めるだけ詰め込んで二百人程だったか。日本まで約二日半、対馬海峡を通るときのひどい揺れが一昼夜。船中阿鼻叫喚、泥ドロ、悪臭—。舟酔いに強い祖父母はそれを避けてずっと甲板に居た。四月とはいえ夜風は寒かったろうと思う。

久しぶりに陸地発見。うれしくて母ともども抱き合ってよろこんだことを思い出す。そこは山口県の仙崎港であった。しかし船から見える景色で私がまず驚いたのは日本人がモノを売っていたこと。中国に居た日本人は、兵隊さんか務め人で、その頃の私は純粋にモノを売っているのは中国人だと決めつけていたらしい。しかしまことに不思議な光景であった。(つづく)

(昔の話は昨年の二、六、十号にあります)

江口大象(書源2018年5月号より)

 
   

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