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昔の話(3)

もう恥ずかしくもなくなったので吃音の昔話でもしよう。

五、六歳のころ二十世帯ぐらいが住んでいたコの字形の社宅の裏に大きな広場があり、そこでは近所の中国人の子供達と一緒になって毎日遊びに励んでいた。
中に吃音の中国人が一人いて、からかい半分に真似をしていたら、半年もしないうちに私自身が本当の吃音になってしまって、入学後にいきなり級長をさせられたときは心底困った。
キリツ、レイ、チャクセキと授業の始めごとに言うことに相成ったのである。起立、礼、まではいいのだが、着席がいえない。軍隊式にハキハキというのがあたりまえの時代。チャクチャクとまで言って、先生をはじめ同級生は皆私が言い終わるのを立ったまま待っている。それが約二年間、毎日五・六回。授業どころではない、地獄であった。
今思うと「ゆっくりでいいよ」との一言があったらと—。先生は矯正のつもりだったと思うが、ストレスでだんだんひどくなり、それは現在まで続いている。

後の話になるが、佐賀の小中高時代、急に「次は江口君、続きを読みなさい」など言われると大変。特に佐賀高校での英語の先生は、だれか一人教室の隅の生徒に当てると、そこからタテかヨコかナナメの席順に読ませる癖があり、自分の番はどの辺から読むのか、それだけで頭が一杯になり、笑いごとでなく心臓が飛び出そう—。
中学では夏休みに吃音矯正教室が開かれ、佐賀県全体で約五十人程の生徒が強制入学させられていた。なぜあのころ吃音が多かったのだろう。今はどこにもいない。

しかしこれが物も言わず一人で出来るもの—書道へと向わせた遠因なのかもしれないといささかこじつけっぼいが、今になって、なぜあの時あんなに熱心にやったのか。わずか十分の休み時間でもクラスの友達とは話もせずに書道部室へ飛び込んで、いくつかの新旧書道月刊誌を繰り返し読み漁っていた。これを書きながら「そうかもしれない」とつい今しがた不思議な謎が解けたような気分になっている。

話を「昔の話」に戻そう。
昭和二十年三月、父に召集令状が届いた。父は令状を開いたまま玄関でじっと正座をしたまま頭を垂れて動こうともしなかった。父三十五歳、天津のカネボウ系列「北支綿花」の一サラリーマン、そんな素人に召集令状。終戦数か月前。結局、軍隊経験のない者は軍事教練を少しやらせられただけで終戦を迎えたようだ。
今回はこの辺で。

江口大象(書源2017年10月号より)

 
   

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