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やぶへび

 私が大阪の東住吉区内にある山坂・南田辺附近を離れたのは、丁度大阪万博が開催された昭和45年前後のわずか2年間だけで、それを含めた5~6回の引越しはすべて小坂先生が居られたこのあたりをウロウロしている。正確にいえばウロウロしていた、である。
 当時千里ニュータウンの古江台に新しく教員住宅が出来て、その抽選に当たったから行っただけの話で、家賃が安くて少し広い、まあ文化住宅よりましかというだけ、であった。
 「書源」を創刊して2年目、結婚して5年。すでにふたりの息子がいた。あのころの千里は子供の山で、長男の幼稚園入園申し込みなどは長蛇の列であったらしい。当時5歳と2歳の子供達はよくそこで行方不明になった。勝手に遠くへ遊びに出て帰り道がわからなくなる、夕方になると駐在さんと家内で捜しまわる事もよくあった。

 実をいうと「書源」発刊当初でもあり、小坂先生は転居することに大反対であった。明日引越しという日に、 
「行くな!」
 その剣幕はすごかったのに出て行った。後日この時の反対は「悪い方向に行かせたくない」親心だったことがわかる。
 事実その後に良いことは全くなく、それから20数年にわたる頭痛の発症、数回のギックリ腰による長い腰痛、このふたつで通勤もままならぬ。直前には家内の入院。小坂先生との連絡の不徹底による「書源」編集への甚大なる影響。窓から見える連日の万博への列を見ながら毎日イライラしていたことを思い出す。
 電話もない、もちろん携帯もない中での小坂先生との連絡は、歩いて5分ほどの公衆電話。その都度手一杯の10円硬貨を用意して—。それでも話がつかずに「今から出てこい」と片道1時間ほどかけて夜中にタクシーで呼び出される事も、月に1・2回あった。

 あの古江台の教員住宅は今もあるのだろうか。その後一度も行ったことがない。ニュータウン開発50年を迎えて、今若者用に改装中であると聞く。内装が美しくしかも安価なため大人気らしい。あのころの活気とまではゆかないだろうがいいことである。
 私は昭和46年の2月に小坂先生の家に近い山坂へ戻って来たが、先生はそれから6年後くらいに奈良へ越された。先生77歳の1月で、折から朝日20人展の東京での行事と大阪高島屋での喜寿の個展の3つが一緒くたになって、医者しらずの先生もこの時ばかりは風邪で1日2日休まれたと記憶している。
 しかしあの歳での気力はすごく、今78歳の私にはとてもそんな元気はない。子供達が大きくなり、手狭になったので、ほんの200メートルほど離れた南田辺の今の家へ移り住んだのは約30年前。ここに来るまでの紆余曲折を今思い返しているところ。もう引越しとは縁が切れそうである。ここでいい。

 むかしの話を確かめるために家内に見せた。この頃は6歳と3歳のやんちゃ盛りの息子が居てるのに、3人目の出産のときに小坂先生の東京での古稀個展のためにあなたが東京に一週間も行ってしまった時よね…あれは大変だった…大阪に頼る人も居なかったのに…。と恨みごとを蒸し返してしまったようだ。今となっては、ただただ平身低頭である。

江口 大象 (書源2013年9月号より)

 
   

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