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書は面白い

 習っている先生の書風にはまるのは至って自然である。子供ではあるまいし、ただ単に近所だから習いに行くなんてのは論外で、いっぱしの大人であれば好きな書風だからこそ習いに行くのであって、当然その先生の書風を書きたい気持ち満々で門を叩くであろう。
 古典も同じ。好きな古典を探し求めてたどり着いたいくつかの古典。そっくりに近く書こうと努力する数年あるいは数十年の時を経て、自分の非力を悟り、仕方なく自然に自分の字、自分の書風を作り上げてゆかざるをえないのが書人の人生ではないだろうか。

 そうしなければ百歳も生きられぬ人間の一生で、自分の字を作る時間が持てないのではないのかと危惧する。古典臨書(師匠の字を真似ることも含めて) の最終目的は自分の字(書風)を作ることだろう。それはある日突然変わってもいいし、自然に変わっていくのもいいと思うが、大事なことは変化発展し続けることだと思う。でなければ少なくとも「新鮮さ」を保つことはできない。しかし新鮮さを求めるあまり下品になっていることに気付かない人が大多数で、それらの作品は静かに歴史から消え去るだけである。

 実をいうと私の作品はこの数十年の間、書風がちっとも変わらない、品も少々…といわれている。全くその通りで、最近の少し大きめに書いている作品など、あとになって自分で見るのさえ嫌なものもあるので、ただただ頭を下げるしかない。

 書は面白い芸術で、自分の数年前の作品を見ても、その時の心の動きが自分でわかる。自分の作品ならそんなことあたりまえだと思うかもしれないが、この作を書きながらあんなことを思っていたとか、この作は本当に無心だったようだとか、その他ここに書いてもしょうがないような細かいことまで脳裏に淀んでくる。 自分以外の作品でも、この点画この払いは無心であったか意図的だったか、いやいや書いているものか、困り果てているものか、などすぐわかる。本当にすぐわかる。

 そんな意味、書は底抜けに面白い芸術で、音楽とも絵画とも違った、ある意味すごい芸術なのである。わかりはじめるとこんな面白いものはない、と断言しておこう。

江口 大象 (書源2010年2号より) 

 
   

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