投稿日: 2022-09-06
カテゴリ: 巻頭言(他)
光陰矢の如し。江口大象先生が逝去され、早いもので今年で三回忌を迎える。先生は常々、書とは面白いものだ、とおっしゃっていた。筆跡によって筆者の気質・能力・性格・心境・体質などが如実に表れることがその理由の一つに挙げられる。
現在の展覧会では、米芾の書風を取り入れた作品が散見される。その米芾の書を観察すると、字形のまとまりが良く、自信に満ち溢れた書のように感じる。しかし、清の包世臣は締まりに行き届かないところがある。これは気力が弱く、臆病な人間だからだ、と言っている。宋の四大家に挙げられる米芾でさえ、こうした分析をされている。さて、私自身の書はどうであろうか。
江口先生からも大悦会長からも、私の作品は力が入りすぎている、という指摘を受けてきている。これは私の気の弱さのためか、と考えている。作品制作時には、力まずに制作しようとするのだが、さて、作品を眺めるとげっそりするのが常である。力が抜けた自然体の字が書きたいが、なかなか思うようにいかない。力の抜き方が解らないのである。
常々お世話になっている弘尚堂鍼灸院の酒井院長に診療を受けながらこの話をした。院長曰く「オマエが日展特選を受賞した次の年の日展作品は、力が入りすぎたガチガチの作品だった」と。「プレッシャーに押しつぶされた精神状態の作品だったからなあ」と私。そうした会話の中で「力の抜き方が解らない」と訴えると、「力が入りすぎると筋肉の30%が硬直して動かなくなってしまう」「プロ野球のピッチングコーチが言っていた。肩に力が入りすぎる投手には、肛門を締めるようにアドバイスしている。人間は何箇所にも力を入れることはできない。一か所にしか力を入れられない、と」との話をしてくれた。
これだ、と思った。一条の光を得たように思えた。先ずはこれに挑戦し、体得してみようと考えている。
アドバイスはその専門家からばかり得られるものではない。全くの畑違いの人からも自分の精神に大きく響き、活路を切り開く一助となることが多々あるものである。
(2022年9号 川﨑大開)
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