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昭和平成の書道史

私が小坂先生に入門した理由はいろいろあるが、その一つに楷書の左払いがあった。決してきれいに払わない。どことなく筆先が縺れたような、なんともいえない含み。ガサガサでもない、行書、草書になるともっと顕著になるのだが、あれを何度練習したことか。筆を替え筆管の角度やスピードを替え何百回となく試みた時期があった。十代の頃である。宋以前の古典はたいてい拓本なのであまり参考にはならないが、それでも多少の含みを持たせればよい。要は一本の線に努めて多くの味が出てくればよいのである。

書はいろいろのことを味わえる芸術である。嫌味にならぬ程度に複雑な味がある方がいい。ずっと変化がありっぱなしの線は反対にこれ又うるさいし、少なくとも上品ではない。たまには速度のあるピリッとしたある意味単調な線も入れなければならないと思っておいた方がよい。ずっと終わりまで同じ遅い線質で書ききるのは「これしかないのか」ということにもなりかねない。

線には多様な変化を内包させた方がいいに決まっている。太細も遅速もない古人の作品はあまり見たことがない。良寛だって米山だって遅速も太細もちゃんとあるもので、長い書道史を見ても残っているのは両者を兼ねながらそれなりの格調を保っている。品のないものはたとえ巧くても自然に抹殺されるし、その当時の主権者の気にそぐわなかったためにいいものでも抹殺されたのかのどちらかである。

やはり汚いというか、そんなこと気にならないと思わせる作品、といってゴミの山から出て来たようなものはちょっと-。きっちりと几帳面なものより、どこか許してくれる範囲が広そうな、いい加減なところのある作品。それでいて中日書道史では見かけたことのない新味のある本格の作品。
そんな贅沢な条件を満たしてくれそうなものはなかなか見当たりませんなあ。

五十年か百年後に、昭和の書道界にはこんな人がいた、平成には-目標は各時代、各界に多くて四、五名ぐらいですか。地位と名誉には関係なく、あなたならどんな人を選びますか。漢字、かな、纂刻等と。どうぞ皆さんも評論家の一人になったつもりで楽しみながら考えて下さい。

江口大象(書源2019年3月号より)

 
   

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