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手本は必要か

昨年、徳島県立文学書道館で小坂奇石先生の折帖展がありました。その折帖はすべてが古典の臨書でお稽古場で弟子に手本として書いたものです。どれもが奇石調で書かれ、手本というより作品として鑑賞させていただきました。特に同一古典でも若書きと晩年に書かれたのとの比較は興味深いものでした。

ところで書塾での稽古方法は様々でしょうが、誰もが何の疑いもなく先生の書かれた手本を見て習っています。そもそも書は古来から守り継がれてきた伝統の継承により存続しています。つまり古典の臨書こそが、書家にとって根幹をなすもので不可欠なのです。同時に創作活動があります。現在の書道界では公募展と称して創作作品によって各自の技量を競っています。その多くは社中の色合いの濃いものが発表されています。つまり古典をベースにしながらも社中の書風が継承されているのです。それら古典の臨書や社中の書風を継承するための学習法のひとつが先生の書かれた手本を真似ながら学ぶということになります。

江口先生は手本通りに書かなくてもよいとよく言われますが、真意はどこにあるのでしょうか。その通り書かなくてもよい手本なら不要なはずで、手本から何を学ぶかが問われているのです。古典の拓本には不鮮明なものが多々あり、見える通りに書けば間違いになることもあります。臨書といえども不自然で曖昧なところは正して習ぶべきだと思います。それは臨書は創作のためにするものだと思っているからです。そのあやふやな所をより確実にし、習いやすくしているのが臨書の手本だと思います。創作手本については、皆さんは手本そっくりに書こうと努力しても、何となく似ているだけでどこかが違うという経験をされた方が多いと思います。そもそも寸分違わず書く事は無理で、たとえ書けたとしても形だけでリズムや線質まで同じにはなりません。時には部分的に崩し方を変えた方が流れのよい作品になることがあります。つまり古典の臨書手本からは古典の学び方を学び、創作手本からは作品の作り方を学んでいるのです。

古典の学び方や作品の作り方を学ぶための手本、さらには社中の書風を継承するための手本は必要でしょうし、なくならないと思いますが、あくまで初歩の方にとってということです。やはり学び方の理想は字形や筆法は古典から直接学び、作品の作り方は展覧会に出向き色々な作品を見て学ぶことだろうと思います。手本なしの完全オリジナルの作品をつくり自己の書風の確立を目指し、日々研鑽したいものです。

山本 大悦(書源2019年2月号より)

 
   

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