文字サイズ

二十人展

春は二十人展から—。

この号が出る頃は、東京の二十人展は終わり、大阪の二十人展が開催されている頃であろうか。まさに「新春恒例の」と言うに相応しい。一九五七年(昭和三十二)に第1回展が開催されて今年は第62回展である。
二十人展、正確には朝日新聞社主催「現代書道二十人展」と言うのであろうか。戦後、いち早く日展、毎日書道展等の枠組みが出来上がる中で、戦前の東方書道会の創立メンバーでもあった柳田春雲が東方の再興を目論み、人脈のあった朝日新聞社、上野松坂屋に諮り、評論家の田宮文平先生の父君中台青陵も発足に奔走した。第一回展は前年の十月半ば頃に検討が開始され、十一月上旬にメンバー発表、翌年初の開催と極めてタイトな中での制作であったようだ。「現代」を冠した為に、戦後盛んになった前衛派等から「現代」の意味を問う議論が提起されたようだ。このあたりの事情は「墨美」No.63(一九五七年(昭和三十二))座談会「朝日二十人展を語る」で、当の柳田春雲が出席して自ら語っているところである。

二十人の人選は当時も今も注目される。当時、璞社初代会長小坂奇石先生もすでに実力者ではあったが、古参の先輩書家が多い中で、第l回展から選出されたことは望外の喜びであったに違いない。その意気込みは高音邱詩「牀屏山水図歌」六曲屏風(現驥山館蔵)となって現れ、草書作品として生涯の代表作の一つとなった。その後も二十人展の作品制作は喜活動の中心となったようだ。毎回、締切りギリギリまで善かれ、東京の表具店「湯山春峰堂」を待たせたと聞く。
出品の先生方も新聞社からの出品依頼がないと制作にかかれないし、依頼があれば、そこからは最善の作をと猛然と制作に集中されると伺った。現璞社会長江口大象先生も平成二十二年以降連続出品されている。身内の先生が出品されると、拝見する方も力がはいろうというものである。
制作期間は?制作意図は?背景となる古典は?書かれた量は?筆は?紙は?墨は?表具は?等々勝手な詮索、想像等も鑑賞の楽しみの要素である。ちなみに、江口先生はなるべく枚数を書かずに普段の力が自然に出ることを理想とされているようだ。今展では昨年の徳島での錬成会で席上揮毫された内の一点(一枚書き)も出品されたと伺っている。ますます拝見するのが楽しみである。

最近は出品の先生方によるギャラリートークも人気のイベントである。別の階で開催されている小品展も緊張の中にもリラックスが感じられ別趣の楽しみがある。
二十人展を拝見すると必ず図録を入手することにしている。最近は図録にも出品者のコメントが付されており親しみやすい作りになっている。図録マニアの小生としては、二十人展の図録だけは当初の10回展までの内、未だ数部が揃っていないのが残念である。地方の方で会場に足を運べない方は、是非、図録を入手して鑑賞されることをお勧めする。

(この稿を書き終えた後に、出品者のお一人、纂刻家河野隆先生の訃報に接した。謹んでお悔やみを申し上げます。)

佐藤芳悦(書源2018年2月号より)

 
   

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です