投稿日: 2015-08-30
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
手作業のほとんどのことは機械がしてくれるようになりつつある。だから、これは手仕事で作ったものですよ、とわざわざ説明している。とりあえず服地ということにしよう。よく見るとたしかに手仕事のよさ、時間をかけたものの良さが伝わってくるが、一見同じに見える隣りのものの値段がバカに安いと「これでいいじゃないか」となる。服地に限らず何でもそうだ。
結果人手が余ってサービス業的なもの、いわば対話を必要とする業種ぐらいのものしか今人間がいらなくなっている。看護だって自分が老人ホームにはいる時は東南アジアのどこからか来た女性(やはり女性か)にやってもらうかもしれない、などと思いきや、それもいらず、先日ことばも理解するロボットが製造されています、とテレビではいっていた。ロボット選手権などを見ていると、学生が寄せ集めの機械で見事な遠隔ロボットを作り、いろんな難関を突破していた。面白いが、これはあれにもこれにも使えそうだという目で見ると、これからのことをつい考えてしまう。
何でもかんでも年々分業が進んでゆくのであろうか。書もその一つで、学問は学問、技術は技術、とすでに分業化の時代にはいっている。分業化が進むはど味わいは失せてゆく。これは文化の匂いが失せてゆくことで人間の臭いもなくなってゆくことに違いない。一番大切なのは学識だとくり返し言っておられたのは小坂先生で、学識の乏しい私は、それを聞くたびに下を向いていた。
七号の巻頭言にも少し書いたが、八月から配本が始まる「田邁古郡全集-全八巻」の推薦文を書きながらあのタヌキ親父の学識の深さには、反論好きのわれわれもただ黙って聞いているしかなかった。学生に混じって常に教官数人が授業を受けていた(藤原楚水、松本洪両先生の授業も同じ)ぐらいなので、教室の中の空気も違っていた。
話を元に戻すと、推薦文を書きながらもう一度勉強しようかと—あのころは真面目でなかった。今はボケがはいって何度読んでも頭にはいらない恐れがある。あの諄々と諭すような口調を重ね合わせながら文章を読んでゆくと、たとえむずかしい書論でも少しは頭にはいるのではなかろうか—と。
今、何もかにも整理をしている。そこへ又八冊もの中身の重い本がはいると考えるだけでも気が重いが、勉強しようかと少しでも思っただけまだ若いのかもしれない。
歳をとって人生が戻らないのと同じように機械化は速度を早めこそすれ停滞することは絶対にない。しかし学識は大事ですぞ—。スマホに頼るばかりでなく、自分の中にも人間らしさ、なさけ、薄れてきた人情、頑固、強情っばり、そんなものを一杯溜めて、それが作品に出せたら最高でしょうな。
知識が知識でなく生き方の指針に「重さ、重厚さ」が加わる。技術が技術でなく「人間の臭い」に変わるような—。
ちょっと反省が遅すぎた。しかしまだ八十。
江口大象(書源2015年9月号より)
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