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読めたら満足か

私は書作品の原稿を小さく書いて、それを大きな紙に拡大したとき、そのままの形で書けない。原稿は書くが小さな紙には書かない。同じ大きさの同じ紙に書くことにしている。それでもあたりまえのことであるが本番で原稿通りに書けたことがない。それでいいと思っている。

行が曲がると今でも気になる。今でも、ということは数十年前までは曲がっている人も真直ぐな人も皆人それぞれという時代だったから—。古典には曲がっているもの、行間の不揃いなものなど掃いて捨てるほどある。誤字らしきものもある。しかしそんなことなどどうでもいいじゃないか、と思っている部分が今の私にはある。大事なのは「本格」であって「強い線」であって、何度もいうが「品位」だろうと思い、私は制作に挑んでいる。

書展で「読めないから分からない」「どんなことを書いてあるんですか」といった質問を受けることがある。一応受け答えはするが、それで「分かりました」と満足して帰ってしまわれては困る。そんなことは鑑賞の最後にしよう。中国に行き始めのころの文物商店には、結構いいものがあった。二セモノの国にもたまに本物らしきもの、本物に近いものなどがあった。ボロボロになった紙に数文字、当然だれが書いたかも、文意がどうのなど分かろう筈がない。それでも魅力にひかれて買っていた。鑑賞はそこからである。読めたら満足なのか。もっといいたいがこの辺で—。

ついでに「何でも鑑定団」に出てくる書作品は、本物かそうでないかは慎重である。しかし歴史上に出てくる政治家や将軍の作品には高値がつくが—いやいや書家の作品は出てこない。私は見たことがない。出て来たら何というのだろう。副島蒼海は高くても中林梧竹はどうだ。かつて版画家の棟方志功の「華厳」の大幅が出たとき、例の無茶書きであったがまあまあの評価であったようだ。過日井上有一の扇子が出て、これもまるで落書きだったが確か高値だったような気がする。彼は心が清かったと見る。巧く書こうとしなかった。墨人会会員ではあったが、一般の展覧会に出したことがなかった。そんなことが評価されたのだろう。

江口大象(書源2015年10月号より)

 
   

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