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本格外さず気侭に

筆を執って書く瞬間、たとえば最後の縦画をどの辺に引くか、最後の点をどこに打つかなどその瞬間瞬間で決めながら書き進めてゆくのが書の醍醐味ではなかろうか。書く前にイメージを持って書く字もあるが、上や右隣の字のスタイルを見て瞬間に違った書きぶりをする—。作品が二字や三字の場合は別として、多字数の場合など隣の字が一センチずれていたらそれなりの対応をしなければどうにもならない。
小さな原稿を鉛筆や小筆で紙に書き構想を練るのは一日や二日かかってもよいが、いざ筆を執って書いた結果が、構想通りか否か、それが佳作か駄作かは又別問題だろう。

中国人で構想を錬った人がいたかどうか、日本人でも三筆や三蹟をはじめ、十回も二十回も書いてやっと一枚残せたという努力家はいたかどうか。血のにじむような努力はそれまでの古典研究や歴代書人の筆遣いやリズムなど、運筆の極意をどうやってオノレの書風に取り込めるかの猛勉強の中にある。どれだけ原本に似ているか手本に似ているかははっきりいって最終的にどうでもいい問題で、大袈裟にいえば、歴史上ない書風をいかに品格を落とさずに作り上げてゆくかに書人は腐心しなければならないのではないか。だから臨書はそっくりでなくてよい、というよりそっくりに書けるはずがないと思って書く方がよい。その古人の書こうとした部分をいただけるところをいただこう。だから自分にとっていただくところのない古典はやる必要がない。時間の無駄だと悟るべきである。もう一ついえば、その古人の字がいかに好きであっても、性格、呼吸、体格等々が多分全て一致する人はいない筈であるから、全てをいただけないからとてイライラすることはない。たとえほとんどいただけたとしてもその書風でその古人より巧くなることは絶対にない。

原稿は気のすむまで書き込んで、字典はボロボロになるまで引きまくったらよい。その上で原稿通りに書けなくてもよいと思いながら楽しく書けたらよい、と思う。
運筆は速くても遅くてもよい。行間は広くても狭くてもよい。どう書いてもよい。結局が良ければ良いのである。運筆の遅速はどちらかといえば遅い方に軍配が上がる。理由は簡単で自ずと深い線が多くなるからである。
鈍重はいけないし浮薄はもっと悪い。中日の書道史に残る作品を見よ。速いのも遅いのもある。行間の広いのも狭いのも、行が曲がっているのも字が抜けてあとで入れたもの、明らかに失敗と思われる文字や、迷い筆、黒く塗りつぶした所でもある。

私の理想は遅速があって、少々暴れていても嫌味がなく、気侭に楽しく—。

江口大象(書源2015年8月号より)

 
   

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