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個展始末記

初日会場にはいるなりイメージ通りのいい展覧会になったと思った。前日皆と一緒に陳列もやるにはやったが、山本大悦君作製の模型図を参考に大活躍してくれたのは数軒の表具師と璞社の連中で、主役であるべき私はたいてい控室の中で休んでいた。
晩年には回顧展のようなものをやりたいとは数年前から思っていた。喜寿展をそれにしてもよかったが、諸般の事情が重なり、十一月が三月に前倒しになり、原田の森が天井の低い大阪の産業創造館に急遽変更されたため、すべて頓坐。しかしその時の展覧会はそれなりに成功した。
今回の「あゆみ展」も四月にする予定ではなかったが、一昨年の暮れに会場の空き具合を訊ねたところ、その段階ですでに、この四月の一週間しか空いていないことがわかり時間があるとはいうものの少々慌てた。

私自身の変化を一室にまとめて見られるのは幸せなことで、一番喜んだのは私だったかもしれない。書家になろうことなどさらさら思わず、ただただ「書のおもしろさ」にどっぷり浸かっていた中学高校時代。手ほどきをして下さった中学担当の野中紫芳先生とその頃のライバルの小山明敏君(後東京で弁護士)、高校での三先生、高校書道部での先輩後輩、すべての皆さんに感謝のことばもない。
「好きなこと」が業となり、生涯できることの幸せは筆舌に尽し難い。
実際には「書源」の編集を三十そこそこの私に任せて下さった小坂先生の決断が(打診は二十五歳頃から)その後の私の人生を大きく変えたといってよい。初めは好きなことをさせてもらっている、小坂先生の手助けができるくらいの気持ちであったが、編集長はおろか会長まで引き受けたことは、もう「よそ見はできん」と。

好きなこと一本で生涯を貫ける。もう一度書こう。私は今回の「あゆみ展」で独り二ヤリとするほどうれしかったのは、十代の頃の作八点を見て「これはもう”書”以外何も見えていない」のが実感できたこと。実生活では八百屋を継ぐこと以外考えられなかった当時に、まあ何と呑気な、何も考えずによくやれたもの、とは思うが—。ここでは母に感謝すべきかもしれない。「大学に行ってもいいよ」はいつどこで聞いたのか。多分高三の終わりごろだったと思う。
そのころのことは、断片的にではあるが鮮明に覚えている。大学に合格した通知は市場の中で聞いた。帰りどうして家に辿りついたのか。仕入れた野菜類をリヤカーに積んだまま帰って、もう一度市場に行ったのか、母に任せたのか。

江口大象(書源2015年6月号より)

 
   

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