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先師のことばからの連想

 学生時代の恩師田遽古邨先生は常に伝統の継承は筆遣いの継承であるといっておられた。
 筆遣いを大きくとらえれば筆意。しかしねえ、意識して出す筆意は見られたものではない。あれこれ考えながら書く書作品は、たとえ面白くても低劣。書はあまり考えず無心に書いたものの方がよい。それは流れが自然に出るからで、書は文字文章を書く筆意の芸術であるとも。
 昔読んだ本にこんなことが書いてあ′った記憶がある。

 それからこんな詰も思い出した。古典の臨書はたくさんするがよい。それはいろいろな筆遣いが学べるからで、初めはその人そっくりに書くよう努力しても、結局は自分の創作作品をつくるための臨書なので、たとえすべてを (字形も筆遣いも) 取得できたとしても (できることはない) なんにもならない。創作に結びつかない。これは雑談の中での話だったような気がしている。
 今習っている先生から手本をもらって日夜努力するのはいいことである。もらった手本のカゴ字をとって、細かい筆遣いや字形のゆがみを詳しく研究するのは非常に大切な勉強の過程である。しかしその結果敷き写ししたように立派な作品が出来たとしても、それが終着駅ではない。多分その作品は、筆の遅速や、呼吸、流れ、間のとり方、叩きつけるあるいはねじり込むような微妙なところまでは写し取れていない筈で、本当のところここらあたりからが出発点なのである。

 話は変わるが、先日の日本書芸院授賞式の挨拶で榎倉香邨先生が、手書き文字の大切さ、中でも毛筆文字の脳への刺激、脳の活性化に毛筆の力は、鉛筆やペンの手書きより数倍する。ちゃんとデータが出ている。メディア人へも大いにアピールして毛筆手書きを喧伝してもらいましょう、と熱弁を振われた。
 ここでふと書かずもがなのことを書く。せめて子供のころにでも筆を持ったことのある人の文字は、たとえペン字であっても情感が違うのではないかということである。中学、高校まで書を習ったのならなおさらのこと。文墨という語があるように文章と筆墨はかつて深く関係していた。
 文字には情を入れよ。上手下手ではなく思いのこもった字を書いてはしい。書の仲間に一言いうとすれば、習った古典の文字は、(篆隷は当然無理だろうが) できるだけ実用にすぐにでも使えないものか。毛筆を髣髴とさせる実用の文字。小坂先生はまさにそうであった。鉛筆字でもペン字でもそのまま手本として即使えるものであった。私は書家あるいは書家を目指す者は、筆文字と実用文字が一致していなければならないと思っている。

 ワープロ全盛時代にこんなことを書くのは無駄か。今文筆家で、手書きの原稿を書いている人が何人いる。過日のテレビ番組で子どもが将来なりたい職業の141番が政治家、よく見ると書道家というのがその次にあった。これを私は吉と見た。

江口 大象 (書源2013年7月号より)

 
   

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