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奴書になるな

 「臨書とは、古典の文字の良いところを学びとり、将来の自分の字に生かすこと」
 右はいうまでもなく「みなもと」の表2「臨書をしよう」の下に毎号入れてあることばで、一種の標語のようなもの、いい方を変えれば私の信念である。
 臨書は、「そのままそっくりに書けるまで努力せよ」を否定するものではないが、それは自分の技術を磨くために、また自分のだれも書いたことのない書風を作るために過去の偉人の筆跡を真似るのであって、完壁にできたからといってそんなに祝盃をあげるほどのことでもないと思う。

 字形は真似できたとしても、筆勢や心情、品格まで臨書できる人はまずいないと思うし、できても、それがどうした、であろう。
 「そっくりだねえ」と感歎の声は上がるかもしれないが、修行の一過程でしかない。どんなにそっくりでも、書いた人本人の気持ちがどこかにはいっているはずなので、私はそちらの方を大事にしたい。見る場合も本人がどこに居るかを探す。

 数ある古典の中で、どの古典を自分のバックボーンに据えるかは吾人として大切この上ないことであるが、習った末に、その痕跡を消す作業も大事な仕事として残る。この作業のために別の古典を齧り続けているともいえる。だからバックボーンは複数の方がよい。
 私は今、王鐸が好きである。あのヨレヨレの人生も含めて好きである。王鐸の本物を見ると未だに血湧き肉踊る(二セモノは血湧き肉踊らないのですぐわかる)。もういい加減別のものにも食指を、とは思うが、今のところなくて困っている。この歳まで対抗馬が見つからないのはいいことではない。しかし数ある古典の臨書を重ねて、絞って絞って「王鐸」なのだから、まあいいかという気持ちもある。

 米芾は「群玉堂帖」の中で、古人の書は皆個性豊かで一つとして同じものがない。もし同じに見えるものがあればそれは「奴書」である、といっている。
 奴書にならぬ努力はしているつもりだが、臨書と作品とは全く別ものという意見には与したくない。

江口大象 (2012年5月号より)

 
   

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