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自分の眼で正しく

 「芸術鑑賞は人に頼るな」と題して、映画評論家の白井佳夫氏が昨年3月7日の日経新聞に〈自身の目で作品に向き合え〉と提唱していた。

 映画や文芸などはダメなものはダメとはっきり書く人が多い。それが自分の文芸になり、投稿、出版できるからであろうが、書と比較することはちょっと無理。書の場合は数が多いこともあり、ダメなものはあえて取り上げない風潮である。しかし一人の評論家が「この人」と思って書く熱のはいった長文の作家論や、例えば50人か100人はどに限定して分析してみせる短かくても正確な作家論、作品評などは面白いものが多い。白井氏は文学作品を巻末の解説から読みはじめる人などの非を嘆いておられるが、書はいきなり作品と対峙するのでその心配はない。却って予備知識がある方がいいくらいである。

 まあそれはそれとして、関心のあるグループや個人の作品を「自分の眼で正しく見る」 ことは今年の目標にしてもいいのではないかと思う。
 と軽く言ったが、実をいうと「自分の眼で」は簡単でも「正しく」はかなりむずかしい。本来プレてはならない「正しさ」 の基準が、個人あるいは団体によって小さくあるいは大きくプレるのが現実だからである。
 常に自分に対して「しっかりしよう」「これでいいのか」と問いかける必要がある。

▽一番大事なことは決めてかからないことである。
▽例えばの話、太くてはダメ、細くてはダメ、筆も紙もこれ、連綿はダメ、一行ものはダメなどなど、決めてかかった眼で見ると判断に誤差が生じると思った方がよい。書道史を見るまでもなくどんなものでもいいものはいいのである。
▽地位が上だから、受賞作品だからなどはのっけから外そう。そういうことはあくまでも参考に。
▽小坂先生の「批評」という巻頭言(六巻三号)に〈生気と覇気、剛健と粗暴、簡素と単純、素朴と粗野、荘重と鈍重、流暢と軟弱、軽妙と軽薄、歪形と畸形〉がある。批評のむずかしさと戒めだろう。
▽さて、「すべてを疑ってかかる癖」をつけるととんでもなく面白く、書の深渕に触れる心地がするものである。
▽たとえ歴史に残る古典であっても疑ってみる。明治の偉人でも本当に?と思ってみよう。時代背景とダブらせて考えた方がよい、とは私も思うが、本当にいいものは歴史など関係ない。
▽現在の師も含めて「神様」は決して作ってはいけない。王義之を含めて書の世界に神様はいない、と思ってかかった方がよい。
▽そして最後に、自分に対して「しっかりしよう」「これでいいのか」と励まし疑うことをお薦めしたい。

大風呂敷をお許し下さい。正月号の巻頭言です。

江口大象(書源2012年1月号より)

 
   

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