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中国琵琶との競演

 「書は密室の祈りだ」 といっておられた小坂先生にはこっぴどく叱られそうなことをしてしまった。先生は取材で書いている場面を撮影させたことはあっても、「いざ制作」 の現場はだれにも見せることはなかった。たとえ家人でも近付かせることなく、只管独り紙と対峙された。

 去る7月17日、京都祇園祭山鉾巡行の当日、私は京都会館で約千人を前にして長恨歌の最終章8行56字を書いた。着なれぬ作務衣を着て、垂直に立てられた紙に向かって書くのであるが、当然
初めての姿勢で、書きにくいことこの上ない。琵琶の演奏もそっちのけ、墨をポタポタ落としながらの揮毫である。
 少々長い落款は 「今月の創作題材」担当者の山本康夫氏に考えてもらった。中1さくらちゃんの琵琶の音色に合わせて、汗をかきかき大変気分よく書けました、と。鈐印して (鈐印の方法は山本大悦君が考えてくれた優れもの) ひと言のインタビューを受ける。初めての経験で楽しく書けたけど、書は書いたものを見てもらう芸術なので、書いているところを見せるのはちょっと-。

 控え室に戻ってから、どうも”比翼鳥”を書いた覚えがないことに気付き、慌てて舞台の袖から確かめると予想通り 「作比翼鳥」の1行がすっぽり抜けているのを発見。ここは長恨歌の中でもクライマックス。3時間前のリハーサルの時には大きくドンと書いた。ぜひ本番のときにはこれをひとつの山にしたいと考えていたところ。
 もう一度舞台に出て皆さんに謝まる。すみません。しかし書き直す気は全くありませんので、うしろの余白部分に 「脱字をしました」と書いてそのまま11月のうちの一門展(璞社書展) へ出します、と。

 「大東書道」 に西嶋慎一氏が連載中の”風姿花伝”は毎月楽しく読ませていただいているが、5月号は 「書に共通する不思議な韻の世界」 と題して、香港在住陳蕾士氏の中国古琴を紹介しておられた。中国琵琶と中国古琴の差がどんなものかを私が詳しく知る由もないが、西洋のそれとは全く違うだろうことは想像できる。
 この記事を読んだとき、今回の中国琵琶を聴きながらの揮毫は、書人の一人として東洋文化を考える巻頭言にできると頭に閃めいた。しかしなにせ前出の大ミスを犯してしまったのでそちらの方に意識が行って、ご覧のような前置きばかりの巻頭言になった次第である。

 もう一度読んでみた。読みつつ陳蕾士氏の古琴のえもいえぬ引きずるような音色、多分低音に心の奥底をゆさぶられるような曖昧な音階と、今回の葉衛陽、さくら親子の音とは少し違うのではないかと思い至った。一対一で父が懸命に娘に教えたのだとは思うが、不思議な音がどれくらいはいっていたかの問題である。さくらちゃんの音色は冴えわたっていた。あの歳であの技術、思わず将来を期待したいと私もいった。しかし本当の中国の音はもっと下手とも形容される〝えがらっぽい″ものらしい。古琴と琵琶の違いもあるだろうが〝何か遠い過去の世界に連れて行かれる心地〟のするその音色を、西嶋氏は「中国の音」「韻の世界」と表現し、書との共通点と解き明かしている。

 この東洋独自の、おそらく大部分の西洋人が理解できないであろうと思われる複雑な味、書でいえばにじみかすれを含んださまざまな表情を見せる線の味。それら古来の東洋の文化が今見直されつつあるとはいっても、「本当か」、「西洋化」 しているのではないか、と音楽にも書にも大きな疑問を投げかけておられる。

江口大象 (書源2011年10月号より)

 
   

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