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ローマ字論者梅棹氏のこと

 民族学者、比較文明学者、ひらめきの学者、梅棹忠夫氏が昨年の7月に亡くなられて以降、梅棹氏を讃美する文が各新聞を中心にいろいろのマスコミを通じて賑わせたことは皆さんも覚えておられることと思う。
 梅棹氏の言う西洋比較論(慌てて数冊の本を読んだだけであるが)はたしかにおもしろい。西洋も日本も文化の進み具合や程度は一緒、東西に分かれて発達しただけなんだという理論は、西洋優位論があたり前だった昭和30年代の中ではかなりユニークで正しい説得力のあるものだったと思うが、同時に彼がローマ字論者だったことを知ってがっかりした。一遍に嫌いになった。

 「毛筆の字はもちろんのこと、ペン字だって、日本では美的鑑賞の対象である。そればかりか、筆跡は人がらを反映する、などというばかげた迷信があって、字は、倫理的批評の対象にさえなる。履歴書は毛筆でもペンでも、本人がみずからかく、というのが常識になっているが、それも、人を採用する側では、筆跡によって、いくらかは人物を鑑定できるような気になっているのかもしれない。
 というようなことをかんがえると、ますます字をかくのがいやになる。美的・倫理的な立場をはなれても、すくなくとも筆跡が個性をもつことはさけがたい。自分の字は、他人の字と一ペんにみわけがつく。なんだか自分の分身をみているようで、気もちがわるい。西洋人は、手紙でも何でもタイプライターでたたいてしまうから、個性もへったくれもない。さっぱりしたものだ。わたしたちも、ああいうぐあいにゆかないも のかな、とかんがえた。」
(梅棹氏の著書「知的生産の技術」より抜粋)

 亡くなる10日程前、偶然朝日(6月26日朝刊)に元日本語学会会長の野村雅昭氏へのインタビュー記事として「常用漢字を増やすな、日本語が滅びる」という大きな記事が出ていた。梅棹氏と同じような意見である。日本語による微妙な表現をやめよ、と説く。「とる」ひとつをとっても「取る・採る・捕る・撮る・執る」があり、混乱のもとだというのである。怪しいと妖しいは漢字でなく別にわかりやすいやさしいことばを創るべきだと。漢字の便利さに頼って、言語を豊かにする努力をサボっているからだんだん日本語が貧しくなるんだ、とのたまう。
 だんだん腹が立ってきたころ、それらの漢字廃止論に触発されたのかキラリと光る記事も出た。8月20日の「正論」だから産経か。社会学者の加藤秀俊氏が「常用に縛られず漢字は自由に」と題して「常用」は強制力のない最低限の目安だからジャンジャン使いましょうよ。「口蹄疫」を「口てい疫」などとするトンマなことをするのはまことに愚かなことと説く。これは痛快である。

 「漢字がなくなれば書がなくなるから」なんてさもしい気持ちでこの稿を書いているのとは違う。正直日本国家の一大事だと思って-。
 ローマ字論、カタカナ論は明治の時代からある。その都度何らかの反対に合って議会を通らなかったらしいが、日本のようなアクセントのしっかりしていない国で漢字を無くしたらどうなるのか、火を見るより明らかではなかろうか。
 漢字否定論者の梅棹氏は、それが存命中に実現されず悔しい想いを抱いて亡くなられたことであろう、とあちこち縷々述べてある。自分の子供の名前もエリオ氏とマヤオ氏。もう少し続けて-。
 「不合理で不可解な文字体系、漢字を捨て、ローマ字表記に改めなければ、日本は世界の情報戦争に勝てない。このままでは21世紀半ばにぽしゃる」そうだ。本当にそうだろうか。

江口 大象 (書源2011年2月号より)

 
   

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