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「好き」だけでよい

 学問はあるに越したことはないが、それと作品とは別だろう。学問があるからいい字が書けるとは限らない。修業を積んだからとていい字が書けるわけではない。それとこれとは別なのである。
 日中の歴史、書道史をどれだけ詳しく知っているかどうか、そんなことと書の本質を理解していることとはそんなに関係がないのではないか。それより何より大切なのは、書を芯から愛し、書くことを楽しんでいるかどうか、好きで好きでタマラン、それが作品にあらわれているかどうかの問題ではないかと思っている。

 王義之や米芾は多才だったのか。楷行草篆隷などの五、六体を書けたのか。特に清代以降の文人の条件のようにいわれているのが詩書画プラス篆刻で、すべてをこなす人を私は心から尊敬するものであるが、やはり一作家としては、中で得意なものはコレというものがある筈で、すべてに亙って一流、はない。楷行草篆隷でも、その中で得意なものはせいぜい二、三体。それでいいではないか、という人がいる。私は楷行草しか書けないので当然この意見に賛成なのだが、書道史を見てもそんな人は独りもいない。

 王鐸や傅山の篆隷は下手だ。あれだけ天真爛漫、わがままが許されるのなら私も書こうか、などと好きなことを思うのもよい。この二人の良さは書をとことん楽しんでいることで、楽しそうに書いておれば、書作品はたいてい許される。上手下手は又別。
 書道史に残る日中の書人の作品は、技術が確かな上にすべて「心から楽しんでいる」のである。そして石碑は別として、何枚も何枚も紙を費やして書き上げたものは一点もないといえる。蘭亭でも顔真卿の争座位でも空海の風信帖でも、ぐっと降って陳淳(道復)でも許友でも、だれもかれも皆偶然の作なのである。99パーセント偶然の作なのである。当然裏には古典の研究と知識が深く関わってはいるものの、少なくともあれこれ考えながら筆を進めてはいない。

 書作品をじっと見ていると、もう何百枚も書いてアキアキしているのか、筆に拘わっているのか、墨色だけに拘わっているのか、ここの点画でビビっている嫌がっている、この行間が広い、この行は曲っている。これらはたとえじっと見なくてもすぐわかることだが、実をいうと、書はそんな枝葉末節のことで評価が決まる芸術ではないと思っている。

江口 大象 (書源2010年6号より) 

 
   

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