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拝石の折手本

  ある小さな酒席で「黒木拝石は下手でしたね」といった。さすがの私も失言だと思ったが、話はすぐ別のもっと面白い方へと移って行った。

 この話の思い出は古い。私はまだ「書源」 の編集もしていない20代であった。ひょんなことから拝石の集字聖教序の折手本を手に入れ先生のところへ持ち込んだ。
 「先生、小坂先生はすでに拝石先生を抜いていますね」
 当時の私の目でも師を抜いたと思われる書人は珍しかったので、私は自信をもってそういった。拝石は先生より下手ですね、とはいわなかった。そして
 「先生、この字は間違っていますね」ともいった。
 亡くなられて10年ほどしか経っていない過去の大先生の誤字を発見することなど、鬼の首を取った以上の大事件であった。私は意気込んでそれを言い、息を呑んで先生のことばを待った。先生はしばらく折手本をパタパタと眺められ、一呼吸のあと
 「わしはまだ拝石先生を抜いとらん」しばし間を置いて「この字は違うとらん!」
 といわれ、パタンと閉じてすっと私の前に返された。

 そのとき正直、拝石は先生の今の字より下手だと思った。持ち込んだのは多分昭和38・39年ごろ、先生は63・64歳。拝石の手本は戦前のものだろうから、想像するに50代半ば。2人の年令差からすれば当然かと思うが、当時はそんなこと考えてもいなかった。
 私も若気の至りでしてはならないことをしたと反省しているが、今考えると、そのとき先生が拝石を褒め、誤字を認めなかったのはすごいことだったと思う。私が逆の立場だったら「ああそうかね」「この字は間違いだね」といいそうだ。師に対してそれではいけないのである。その後何度か、一般論をいうような場所で「自分の先生の悪口は決していってはいけません」と言っておられるのを聞いた。

 いつか書いたようにも思うが、私が中学生のころ数カ月肺浸潤で入院したとき、枕元にあった10数冊の印刷の折手本のうちの1冊が拝石の行書創作手本で、その中の1字「春」 の左右の払いに惚れ込んだ。そこには厚味も潤いも充分にあった。
 平成になって間なしのころ、拝石の弟子だった人が入門して来て、そのとき昭和14年頃の拝石の折手本のコピーを大量にいただいた。先述の肉筆折手本は行方不明だが、この稿を書くにあたってもう一度コピーを見直した。集字聖教序、蘭亭序、書譜、淳化閣帖、李嶠詩集。感想は「うまい」「真面目」。当時の書人としてはそれを求めていたのかもしれぬ、とは思うが、私が病床で見た瑞々しさはやはりないように見えた。あのときの拝石の印刷折手本をもう一度見てみたい。

(補)私への忠告はいくらいってもらってもかまいません。どうぞお気軽に。

江口 大象 (書源2010年5号より) 

 
   

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