投稿日: 2012-06-30
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
巻頭言を書くようになってざっと25年。それ以来何か材料になるものがないかと始終世の中を見廻しているようだ。なかば癖になってしまった。
寝ようかと思って眼を閉じる。数分のうちに眠ってしまえばそれまでだが、10分ほども経つと不思議なほどおもしろい巻頭言らしきものがつぎつぎに浮かんでくることがある。
そのときサッと起きて書きとめておけばよいものを、折角の睡魔を払いのけてまで—と思いそのまま寝てしまう。そんなとき昔はよくメモをしていた。してもすぐ又寝られるのでよかったが近頃はそうはゆかぬ。
翌朝目が覚めると、何か面白いものが書けそうだったことは覚えていても肝心の何を考えていたのかはさっぱり—。こんなことが10年以上も続いている。
10数年前、ある時ある先生が「君雑誌に時間を取られすぎているんじゃないか、あれ大変だろう」といわれた。「はあ」とその時は答えただけだったが、暗に勉強する時間が足りないのではとの意味合いが含まれていたのかもしれない。しかし実際時間を取られていたのは昭和50年代までのほぼ10数年間。今から30年以上も前のことである。編集、校正、原稿割当、督促、入金事務(これは主に家内の仕事)その他は家内と2人。発送と開封、分類は何人かの人に手伝ってもらっていたが、そのほかのことはあまり人の手を借りることはなかった。
しかし今は楽になっている。徐々に手伝ってくれる人が増えて、私の役目は手本と巻頭言、マンピツを書くだけ。「書源」からは随分解放された。からとて今から本格的に勉強をという気にはなかなかならない。書道史を読む、随筆を書く、議論を闘わす、などなどはやはり忙しいときほど捗るようだ。意欲が湧くのだろう。若さもある。
又ある先生に「君、今何時ごろかね」と問われたことがある。私は返事に窮して「まあ午後8時ごろですかね」と答えようとしたところ、ちょっと間を置いて「書家は75歳がピークだね」とも加えられた。あれは私が70前のころだったかと思う。
平均寿命が延びたとはいえ、人間70を過ぎるとだれしも人生の晩年を意識しはじめる。オレの人生は何だったんだ、と思いを馳せるわけである。そこで平凡な人生だったと思う人は「平凡こそ最高である」という結論に達し、「一芸に秀でた」と思っている人は「人生何かをしなければ無意味だ」との結論を出す。
要するに振り返って自分の人生を無意味なものと考えたくない心の働きによって、各人さまざまな人生論を打ち建てることになるのである。
書人の人生も同様で、残り少なくなったときの人生訓は、決して自分の書道人生を灰燼に帰するようなことはいわない。いう筈もない。「書」に対する自論を滔々と述べることになる。それが正しかろうが間違っていようが、自分にとってはそれしかないのだから、それを「正しい」というほかはない。世に残る書論、書作品もその中から生まれて来たものなので、その書人の書作品とを重ね合わせるとすばらしく面白い。いやたとえ言論はなくても、書作品だけで、ほぼ「その人の一生」がわかる。書論があればなおいいだけの話である。
睡魔の話からとんだ方へ話が向いてしまった。もう少し書きたいが今日はこの辺で。
江口大象 (書源2012年7月号より)
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