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日本語はどこへ行った。

最近病院で中高時代の友人と会うことが多く待合室が臨時同級会になる。病状報告から終いには診察券の枚数を見せ合う始末。ババ抜きするには枚数が足りないな、と笑いながらも同級生や知人の様子を知る利点もある。一人が「ガーデニングは楽しいぞ」と言うから、庭の手入れだろうがと応じると「ガーデニングのほうがカッコ良いじゃないか」と。ならば苺や牛乳も、ストロベリーとミルクのほうがカッコ良いのか?と返すと「書家はそれほど漢字にこだわるのか?」という質問が来る。英語あるいは外来語に頼る傾向が強すぎはしないかと日頃感じているが、中国人留学生は、日本はカタカナ単語が多いので日本人は英語が普通に話せると思うらしい。

最近やむなく携帯電話をスマホに変えさせられた。取扱店での店員の対応がこれまた同じ日本人かと疑うくらいに英単語での解説が続く。スマートフォンの略語がスマホになってしまっているが、スマートの本来の意味は賢いとか機敏なという形容詞であることを彼らは知っているのであろうか?身なりなどが洗練されているという意味は辞書でも後のほうに出てくる。小生の隣でやはり店員の説明を聞いていた同年配の男性が「頼むから普通に聞いて判る日本語で話してくれないか」と困惑顔で言うのを聞き全く同じ思いをした。特にコロナ禍以降にその傾向が強い。パンデミック、クラスター、ソーシャルディスタンス、オンライン、ウィズコロナにgo toキャンペーン、同じくトラベル、同じくイートと枚挙に暇あらずである。

一冊の本を紹介したい。元マイクロソフト日本法人の社長を勤めた成毛眞氏の『日本人の9割に英語はいらない』—-英語ができても、バカはバカ。—-(祥伝社黄金文庫)であるが、読んで胸のすく思いがする。そして成毛氏の曰く、いま日本人に必要なのは、日本という母国を深く知り自分なりの考えをしっかりと持ち、日本語でしっかりと伝えられる”日本人力”であると結ぶ。

そして残された日本語は自粛だけ。時短などは字短だろう。濃厚接触は一体誰が言い出したのか。濃厚の境はどこなのだ?それよりは、至近接触のほうがよほど判り易いと思うがいかが。

川村龍洲(書源2022年3号より)

 
   

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