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心の遊び場

書に携わる我々にとって、書とは何なのか、どのような役割りがあるのか、書を通じて世の中にどの様な貢献ができるのか、と考える。古人が今日まで残してくれた古典は数限りない。それらの書は大きな感動を与えてくれる。心のゆとりや躍動感をも与えてくれる。古典を学習することで、私自身もこうした書を書きたいと切に思う。

過日、「お宅拝見」といったテレビ番組を見た。20坪ほどの、猫の額ほどとも言える土地に、3階建てを新築し、一家睦ましく暮らしている様子が放映された。「この土地に家を建てるのに、一番苦労したことは」との質問に、「収納スペースと一家団欒の空間を確保すること」と答えていた。確かに、階段下やあらゆるスペースを利用して収納できるよう工夫されている。しかし、居間の大きなサッシドア付近、最も日当たりの良い絶好の場所に広い空間があった。何もないスペース。普通なら、もったいないと思うのだが、家主は「いいでしょう」とご満悦。「この一見、無駄な空間が家族にゆとりや暖か味を感じさせる”心の遊び場″になっているのです」と言っていた。家の合理性・機能性・利便性といった実用面だけを考えた設計では味気ないものになってしまう。だから、このスペースを造ったのだと。一般的には、こうした空間は不要と言えるかもしれない。しかし、なくても良いものが、実は人にとって、なくてはならないものとなるのである。書をはじめとした芸術はそうしたものではないだろうか。

芸術がなくても人は生きてゆける。しかし、心を癒す、心を躍らせる心の遊び場は望めない。こうした役割が書であり、芸術だと思う。こうした心のスペースを世の中からなくしてはならない。味気ない社会になってしまうからだ。
人間はひたすら幸福を願い、社会文化の向上を望んでやまないのに、現状は却って不幸・不安・混迷が増加しつつあるように思えてならない。こうした世の中だからこそ、芸術の存在理由と書道の価値を改めて考える。

こうした書道に携わる我々が、人に感動を与え、”心の遊び場″としての作品を発表するには、書の実力向上に努めなければならない。それには、多く練習をすることに尽きると思う。すなわち、書の上達の秘訣は練習を重ねることである。しかし、練習を重ねることで壁にぶち当たり、疑問が起こる。それを克服するために研究することになる。こうしたことを繰り返す修練がなければ書は上達しないし、見る目も育たない。書道の本質に近づくことができないのである。多くの人々に感動を与える”心の遊び場″としての書は生まれないと考えている。

川崎大開(書源2021年11号より)

 
   

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