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「草書」に思うこと

競書雑誌の手本ページは、大体が楷書・行書・草書と続くのが殆んどであろう。ところで、日常生活で草書が使われる場面、つまり使用頻度に注目してみると、まず無い。むしろ篆書・隷書は毎日使うお札に印刷されているから、読む・書くことは無いにしてもきわめて身近である。こうした視点で見ると「草書」は実に不思議な存在である。そう言いながら、メモや私信、或いは床の間や壁に飾られた書や、画に添えられた讃や款記、そして書道展はこれまた草書のオンパレードである。また習う人にとっても「草書」は憧れの書体であることを体験上知っている。習いたい理由を尋ねると「知的に見える」「上達の確認ができる」といった答えが多いし、中高生にいたっては「だってカッコ良いじゃん!」がトップ。理屈っぽく言えば〝非日常への憧れ″と言ってよいのかもしれぬ。今まで気にしながらも、草書についてこうした文に出会ったことがない。しかし競書や展覧会の制作となると、草書学習は不可欠である。草書を覚えるには英単語を覚えるように、ひたすら丸覚えするしかない字が多い。江口先生はそのために中学時代に日記を草書で書く訓練をされた。その日記を拝見すると、これまた中学生の字とは思えぬ見事なもので、改めてその早熟ぶりと努力に驚かされた。

我が稽古場での草書手本は『書譜』にしている。一番の理由は肉筆で筆使いが明確、崩しが正しく安心して習えるから。さらに孫過庭の書論が学べる。判り易く有名な「五合五乖」はその好例である。「良い書」が書ける条件は、1、心が安らかなとき。2、ひらめきを感じたとき。3、気候が落ち着いているとき。4、紙と墨がなじんでいるとき。5、たまたま字を書きたくなったとき。以上が五合で、逆のときはうまく書けない。それが五乖であると。1350年も前の書論だが今この瞬間でも得るところが多い。もう一つの草書手本は王羲之の『十七帖』になるが、自分の加齢と共に見方が変わってきた。その素晴らしさが判りはじめたといってよい。というのも全てが手紙で、まことに身近な内容を書いている。今更何をと言われそうだが、書聖・王羲之といえども、家族、親戚、友人想いの普通のオジサンだったことに気が付いたからである。

川村龍洲(書源2019年10月号より)

 
   

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