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ほのかな色気

洋の東西を問わず芸術と名のつくものには色気が要る。それは本人が意識するしないに拘らず—。しかしそれが態度や作品に出てしまっていては嫌味でしかなくなる。
必死で基礎的な勉強をしているうちはそんなことどうでもいい。ちょっと余裕が出てきた頃に、他人の作品(一応有名人としておく)をそんな眼で見るとか、自作を他人がどう見てくれているだろうなどと思いながら会場に居るとか—。

どうも書家の私なので書作品のことになり勝ちだが、お茶やお花、それに能なども入れて—ここでは東洋の芸術しか頭にないが、欧米などにも質こそ違え同じことがいえると思う。どこにも阿ねない、微かに匂う色気があった方がいい。ただ単に熱心、懸命なのは—。これにはあまり年令など関係がない。といって九十歳から始めた人、反対に小中学生あたりにそれを求めるのは酷かもしれない。基本をしっかり身につける時間と、ものの本質を敏感に感じとるゆとりの時間がいると思うからである。

さてこの辺で何をいいたいかを述べなければいけない。小坂先生を褒めたいのである。先生の作品にはほのかに漂う色気があった。先生ご自身も全くその気はなかったろうし、日頃の生活にもそんな素振りも見せられないのにいざ筆を持つとあんな作品が生まれる。えもいえぬほのかな香りがするのである。やはり基本に対する自信が背後に大きく聳え立っているからなのか。
心を遊ばせながら好きなこと、したいことをとことん究める、といった奥の深い作品。これは普通の心、平凡な心の持ち主でない方がいいかもしれない。
ちょっと変った心の持ち主、頑固一徹、梃でも動かぬ心意気、絶対他人に阿ねない、阿ねることなど頭の隅にもない、自分で正しいと思えば相手の地位の上下などお構いなしに意見を言う、誰の前でもいいじゃないか、誰が聞いていようと—。

歴史に残る日中の偉人、とりわけ筆者の心がそのままに出る書人(線の多い画家を入れてもいい)の素性、平素の生活ぶりを調べたくなった。今、急にそんな気持ちになっている。
どんなことでもいい。その人の裏に潜むゴンとした重い塊、歴史に残る名作を書いた書人、画人などには皆それがある筈である。それが作品の色気、魅力になっている筈である。普通なら隠したくなるような些細なことでもいい。

江口大象(書源2019年7月号より)

 
   

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