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何もない 見ればある

 陶芸家・河井寛次郎のことばである。作品も他者の追従をゆるさない独特の世界を作った人であるが、エッセイなどもまた寛次郎ならではの言葉づかいで面白い。例えば「仕事が見付けた自分 自分をさがしている仕事」「仕事が仕事をしている仕事」「ひとりの仕事でありながら ひとりの仕事でない仕事」などなど。(「火の誓い」講談社刊)

 さて、書を習おうとして最初に意識するのは「お手本」だと思うが如何。先生が居れば先生の書いたお手本を見ながら(つまり真似ながら)書くのが一般的な状態だろう。あるいは『書源』のような競書雑誌の課題をお手本にする人も多いと思う。そうこうしているうちに「やはり臨書しなきゃ」となってくる。そこでこんどは「臨書」とは何だ?という素朴な疑問が湧いてくる。それに対する答えは「優れた古人の書を学ぶこと」だと。ということは自分の先生や雑誌の手本よりもっと優れた吾が有るらしく、そして多くは白黒反転した拓本類が多いことを知る。おそらく前述のような状態で沢山の古典が有ることを知り、臨書の楽しさと書道の面白さと奥深さを知るというのが、大学などで最初から専門的な教育を受ける人以外の世間一般の方々の状態ではないかと想像している。

 そこで臨書に対する姿勢だが、まずは徹底して「見る」習慣をつけたい。将に「見ればある」から。故・伏見沖敬先生は東京教育大の授業で、物差しと分度器を使って古典を観察しなさいと学生たちに説いたと聞いている。例えば九成宵醒泉銘と孔子廟堂碑の横画の角度の違いを分度器で測って確認する。或いは「佳」なら四本の横画と横画の空間に何本の横画が入るかを調べる。つまり見て納得してから筆を執りなさいというのである。なぜならば見えないものは書けないから。ある古典を見て第一印象だけで臨書するという方法を否定はしないが、お宝が満載されている法帖(古典)を、まずは熟視する習慣を身につけて欲しいと切望する。

川村龍洲(書源2019年4号より)

 
   

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