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心眼

今年から私の巻頭言は奇数月だけにした。この上何を減らそうかと只今思案中。今まで小坂先生をモデルに毛筆手本類は書けるところまで書こうとは思っているが、巻頭言は先生がされたように数年前から中野南風、加登亙川、私が書いていた。まだ書きたいことは山はどあるのだが、最近の私の文章にはしまりがない。まあとりあえず隔月にしてもらって—。そうと決めたらすぐ、二号は佐藤芳越さんにすでにお願いした。気の速いのは私の性分で、もっと速いというか仕事の速いのが芳越さんではないか。もう書けたらしい。

初心に還って創刊時、先生が六十六歳で善かれたそれを見ようと取り出したのはいいのだが、他のページに目が移って二号三号と見ているうちにたちまち二時間ほど経過、すでに五十数年昔のこと。殆んどの方が亡くなられている。懐かしさに四号五号までと思ったが思い切ってやめた。
当時私はまだ三十数歳なのに、座談会などで云っていることがあつかましい。それから約三十年、私だけで三百回を超えて、すでに先生の回数(約二百四十回)を上廻ってしまっている。
先生は三号までで「書は視覚ではなく心眼で見よ、心で読め。気韻、雅致、情趣、格調、幽玄、それこそが東洋芸術の書の本質ではなかろうかと訴えられている。形や筆遣いといった表面を見るのではなく気持ちで見よ」と。これを噛んで含めるようにいわれている。

この主張は「書源」創刊の心意気であり、璞社の核心でもある。平成三十年を迎えて改めて確認しておこう。
<付>心眼で見ることは決してむずかしいことではない。まだ私は入門して間がないからとか、もう二十年もやっているのにそんな眼で見たことがないから、などの屈理屈は全く通用しない。極端な話、筆を持ったこともない人も同等で「心眼で見る」ことは、見る方の気持ち次第なので、気持ちをそう向かわせる広い眼さえ手に入れれば万事OK。先輩でも後輩でも—。
しかし技術を軽視しては永年の努力が「何のために今まで苦労して来たんだ」ということになりかねない。
「技術九十パーセント、心眼九十パーセントということにするか。」これでは合わせて百パーセントにならないじゃないか、と思う人もいるだろうが、そこが芸術のいいところ、曖昧模糊、魑魅魍魎としたところとして詮索しないことがこの世界の綻だと思ってほしい。
「心眼」は気持ち次第です。展覧会を見る眼が大いに変ってくるし、楽しくもなること請け合いです。

江口大象(書源2018年1月号より)

 
   

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