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書の海

朝日新聞に連載されていた、大岡信さんの「折々のうた」は、移り気な私の愛読コーナーの一つであった。私はもう長編は読まない。短編かそれに近い一ページものぐらいしか読めない。今は読みたいものしか読まなくていい週刊誌、それも週遅れどころか月遅れのものを愛読書にしている。

しかし「折々のうた」はよかったと思う。うたの世界の多様さと奥深さを私ごとき素人にも親しみを込めて簡潔に説いてもらった。あの解説を見ていると一瞬私にも出来そうな気がしたものである。一瞬でもそう思わせる力があった。
読むのは好きでも詠むのはハナから出来ないと決め込んで俳句も短歌もやったことがない。ついでに囲碁や将棋どころか漢詩も–。それぞれに取るに足らないつまらぬ言い訳はあるが–。しかしこの中でも漢詩はやっとけばよかったという想いは強い。でも、俳句や短歌と同じくたとえ挑戦していたとしても私には閃きがない感性がないと半ば決めつけ現在に至っている。

その大岡さんが四月五日、八十六歳で亡くなられた。訃報を伝える翌日の「天声人語」でも大岡さんのことに触れ、十年程前の連載中止を惜しんでいる。そこには柿本人麻呂、藤原定家、松尾芭蕉などの先人の名を挙げて「すぐれた詩人は実作者、評論家、編集者の一人三役を兼ねる。私も彼らを目標にしてきた」と大岡さんのことばが紹介されている。
西行のよく人口に膾炙されている「ねがはくは花のもとにて春死なむ」の句を日ごろから繰り返し、妻や友人らとともによく話題にしていたという。

今、私は〝書の海〟にどっぷり漬かって、もう抜け出せないというより、書のおもしろさの中で一人もがいて喜んでいる状態だといってもいい。
書のおもしろさは暗くて深い洞穴のようなもの。どこまでも沈んで行けるし、どこまで沈んだか本人さえわからないもの–。ある人がかつて私にいったことばいろいろ。「君は古典の研究が足りないよ」「雑誌なんかに時間を取られてはなんにもできんだろう」「教師をやめたらいかん。教師、書道、編集、書塾の四つのうちやめるのを一つ選ぶなら塾だね」
だいたい皆先輩からの助言である。もちろん数十年前までの話ばかり。一人三役が限度らしい。結果的には大岡さんの助言ではなかったが、そのうちの「教師」をやめて三役。いやこのごろは編集からもはとんど手を引かせてもらっているのが実情。

大岡信さんの三十年弱にわたる約六千八百回の「折々のうた」は長く深い読みものであった。

江口大象(書源2017年7月号より)

 
   

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