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小話二題

半年ほど前だったか、どこかのテレビを見ていたら大口を開いて笑う女性がいた。一度かと思ったらインタビューの間、顔よりも大きい大口を手で隠すこともなく—。テレビカメラの前とはいいながら大サービスの大笑い、喉の奥まで。年のころ六十過ぎか。でもいい感じであった。半分作り笑いだったろうが、いつもの仕種であると思って見ることができた。
笑顔は真面目な顔よりいい。男女ハンサム不細工、どんな顔でも心から笑っている顔は見ていてこちらがほっとする。心が豊かになる。この「心から」が大事なところで、微かな心の動きが見えると何かあるのかと考えなくていいことまで考えてしまう。何でも一緒。その場の空気を(独りでもいい)心底楽しんで心も全開にして—。

ここらで書作品のことにも少し。技術の上下についてはだいたい見ただけですぐわかる。しかしその裏も見よう。書の楽しみ方として、技術の上下はそう大きな問題じゃない。書作品にほんのり隠された底の底、その辺まで見られたら書作品の鑑賞も底抜けに面白いでしょうな。
これは書道界の地位には全く関係なし。だから誰の作品でもお構いなし。もっと楽しむべし。
ところがこの話は展覧会の入落や入賞するや否やとはあまり関係がない。でも言ってみれば一番大切なところと心得るべし。
技術はとことん磨きましょう。でも嫌味はダメ。

天王寺の地下街を歩いていたとき数メートル先からこちらへ向かってくる乳母車に出合った。乗っていた子供はだんだん頭がずれてきて数秒後にはコトンと寝た。母親の方は落ちそうな頭を気にする風でもなく、一緒に歩いている隣りの友達と夢中。三、四秒間のことであったが妙に頭から離れない。
その日の夜だったか。アルコールを少し飲んで風呂にはいり、布団に潜ったとたん寝てしまったらしく、読もうと思った新聞や雑誌はそのまま、電気もつけっ放し。起きたのは午前一時半。羨ましいと思ったあの子と一緒じゃないか。

ふとこんな心境で作品が書けないものか、力は張っているが、作品は自然体そのものでポロリと出来上がる。
京翠と玉響の半切作品が一気に書けた。出来の上下よりも心境のいい作で、今、その作品の縮小コピーは我が家のトイレの壁に並んで貼ってある。本物の我が作品は飾らない主義(それも「破顔大笑」で崩れた)だが、トイレには過去の縮小コピーが所狭しと貼ってある。

江口大象(書源2017年5月号より)

 
   

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