投稿日: 2017-04-07
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
昨年の「王義之から空海へ」を見たあと家内が溜息まじりに云ったのは「こんないい作品を見たり臨書したりしているのに、なんで書家の字は品が悪いの?」。
品は書道史を見ればわかるように時代が下るとともに少しずつ落ちてきている。どこかで誰か止める人はいないのかと思うが、主義之より品が良くなった、と公言したのは米芾一人で、その米芾も義之を抜いたとは思えない。でもまあ彼が一番義之に近いとはいえそうだ。そして両者とも庶民のような衣食住の心配をはとんどしなくてよかったからと思うのは僻み目か。東晋の貴族しかりで大暴れしている自身の「罔極帖」も品格は落ちていない。平安の貴族も同様だろう。
中国人は手本を書かない。自分の練習は原本から直接で、弟子といっても見て批評をするだけだと聞いている。それでも年々品が落ちてきているのは事実で、だとすれば品は貴族だ手本だではなくてただ本人の「品を見る力」の有無だともいえそうだ。東晋にも平安にもひどい奴は腐るはど居たに違いない。しかし科挙がなくなってからの政治家の書作品は目を覆うものが多い。
初めから何の試験もなく、ただ武力で勝ち上がってきた武将は—いや筆を日常使う時代はまだよかった。鉛筆や万年筆の出現で毛筆の必要がなくなったこと、現代ではそれもいらぬ時代が到来している。手書き文字がなくなりつつある。上手下手より人格丸見え、品格丸見えを人知れず楽しんできたわれわれにとってはパソコンの文字は全くいただけない。
なんのかんのいっても「科学」の進歩はとめられないようだ。決して後戻りはしないと思うのが正しい答えだろう。しかし「文化」はちょっと埒外に置いてほしい。
江口大象(書源2017年4月号より)
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