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野中正陽兄を偲んで

野中正陽兄が亡くなられたことを一日遅れで知った。私が迂潤に携帯を自宅に置いたまま三省会のパーティーに出かけていたので私に責任がある。享年八十三。

正陽兄は高校の一年先輩で弟の朱石さんは同じ高校の三年後輩。このお二人の伯父さんに当たる野中紫芳先生に私は中学生の時、手ほどきを受けた。そんな関係もあって大変親しくさせていただいていた。
正陽兄の奥さんは先年亡くなられているので一人住まいだったが、書家としての活動は止むことなく、死の当日書道教室に来られなかったのを不審に思った生徒さんが娘さんに連絡をして死亡が判明したくらい。前日は毎月の例会にも出席し(その時の集合写真はいただいている)二日前には初めての個展作品を二点も追加制作されている(これが結果的に絶筆)。
七月二十九日、この絶筆の半切二点を凄い迫力だと思って見てきた。佐賀での「野中正陽を偲んで・・書作展」会場でのこと。死の影が全く見えない。死ぬことなどもっと先のこととしか思っていないいい作品であった。もともと開く予定だった個展とはいうものの弟の朱石さん(玄燿書道書道会理事長)はいろいろ大変だったろうと思う。

正陽兄は関東の津金孝邦先生の門下であるが、私が高二のとき津金寉仙か赤羽雲庭か小坂奇石かと悩んだころ正陽兄は寉仙先生に師事した。別にこのことで話し合った記憶はない。その後寉仙の早逝によりご子息の孝邦先生の門人になられた。
奥さんがご存命のころ幼かった娘を連れてご自宅を訪問させていただいたことがある。そのころはおてんば娘で、両足を両壁に踏ん張って数メートル上って遊んだりしていたことを思い出す。十年程前の一月にはベトナム旅行も一緒だった。
思い出は尽きない。ともかくいい人だった。好人物の代表みたいな人だった。佐賀銀行取締役庶務部長、その後同銀行の文化財団初代専務理事、書以外の文化的なことにも造詣が深く、音楽、絵画、ご来阪の折には「宝塚歌劇を見たい」といわれて家内が驚いていたことも今はいい思い出である。

江口大象(書源2016年9月号より)

 
   

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