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閃きの作

昭和四十五年前後私は大阪の北千里にできた教員住宅にいた。四十四年の七月に越してきて、大阪万博が華々しく開幕したのが翌年の四月。たしか入口が数カ所あり、その一つの入口が三階にある私の部屋のベランダから見えていて、その長蛇の列を毎日見ながら出勤していた。
私はすぐ近くに居ながら、遠方の親戚の案内で一度だけ会場を覗いた。その時どの国の展示場を見たのかさっぱり思い出せないが、太陽の塔だけは強烈に印象に残っている。

あれからざっと四十五年、そのシンボルは今でも周囲の飾りをすべて取り除いた中心部だけの、あの顔あの翼でニョッキリと立っている。
作者はご存知岡本太郎氏。大きな日をカッと見開いて「芸術は爆発だ⊥といっていた人である。彼は根っからの芸術家で、私から見れば「変人」の仲間にはいる。「変人」といえばちょっと語弊があるが、「特異な感覚を持つ、一風変わった人」という意味合いだと思って欲しい。私の好みの芸術家ではないが、その仕事ぶりは、彼の死後に評価すべき芸術家の一人として私の頭の中にしっかりとはいっている。

王義之が「変人」だったかどうかは筆跡を見てもわからない。米芾も筆跡はほぼ普通なのにこっちには「奇人伝説」は数限りない。しかし時代が下って清代になると、「揚州八怪」を始め、勝手気侭な独特の世界観で作品を発表しつづけた人達が目につく。常識的な作風を書く、例えば乾隆帝の作風など、私から見れば面白味がない。やはり「変わった感覚」 の作家に魅力を感じるのである。
私は、元来芸術作品は閃き、常に何かしら新しいことを考えている人から生まれるのではないかと思っている。小坂先生の「常識は要らん。必要なのは学識じゃ」が、ここらで芸術家の言葉としてすごい光を放つのではないか。

今、必要があって第一回からの二十人展作品を見ているが、皆さん個性あふれる魅力的な面白い作品で思わず見入ってしまう。私は生まれ持った天性から成る「閃きの人」には到底かなわないが、制作の場では努めて新しさのある作品を作りたい、と足掻いているのである。

江口大象(書源2015年4月号より)

 
   

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