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八十歳 万歳

母親の胎内にあるときから人生は始まっているので、年齢は中国風に数え年の方が正しい、とはいつか誰からか聞いたことがある。そうか、ならば私は去年から八十歳なんだ。しかし新聞も何もかも満年齢でしか数えてくれない。これが日本流なんだろう。私も日本人のはしくれだし。

昨年おそるおそる作品に 「八十」と書いたことが二回ある。一つは年号を入れずに八十、昨年末は正月と書いて時年八十と書いた。満八十歳の一カ月前のことである。
八十歳には拘りがある。一般に書家は長寿だといわれるが、七十代、いやそれ以前に亡くなられている実力作家は山ほどいる。
私は四十歳になったとき、人生の半分は終わった、そして次は七十四歳で他界した父を越える意味で八十歳、さてこの四十年間をどう生きるか、と自問していた。そしてもし八十を越したらあとはオマケと考えてもいいのではないかと頭の片隅で思っていた。

先日マンピッに書いた通り真鍋井蛙氏から「大象八十」 の印をいただいた。いよいよもう使ってもいいんだ。作品ももう少し自由に書こう。言いたいことも少しずつ本音を書いていいのかな、などと今考えている。
平均寿命まではとても持たないと考えていたらしい掛かり付けの近所の医者から「江口さん平均寿命を越えそうですね」といわれた。そのことばは本当に良かったという響きがあって、それから何度も自宅でそのことばを反覆している。

級友も随分死んだ。教え子も知っているだけで十人近く旅立った。私はこの人はいくつで亡くなっているのか、この作品はいくつの時の作品か一見つまらぬことに多少の拘りがある。だから今度の四月の個展には何歳での作品かを名札のところに小さくでも書きたい。
他人の作品を見て遠からぬ死を想いながらこの作品を書いたのか、あるいは全く思っていない作品だとか、など年齢とともに作品をじっと眺めていると何かしらわかるものがある。喜はそんな意味でも面白い芸術である。

もうこれからは八十を越したんだから、落款に八十何歳と書こうと思う。
八十万歳。足もヨタヨタして来たし、物忘れも最近特にひどくなって来た。老いとはこんなものかとどこからか眺めている自分がある。

江口大象(書源2015年3月号より)

 
   

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