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杞憂

今は知らない。私達の時代、英語は文法と和訳しか教えていなかった。だからあの頃多分英語の先生でさえ実用的な日常会話は苦手だったのではないかと思う。もちろん英語の授業は中学にはいってからのこと。しかしそれを最近になって急に小学五・六年からと言いだし、実験校などではもう始まっているのかもしれない。そんなにたくさん、英語を話せる先生が確保できるのか不安だ、何故そんなに急ぐのか、など一部に不満が出はじめた矢先、今度は英語教育の早期化が大切だ、小学三年生からにしようではないか、そして2020年からは五、六年生では正式に教科にしたいといい出しているとのこと。現在の”受験するための英語”ではなくもちろんアメリカの街で一人歩きできるような実用的なものなんでしょうな。

文科省のお役人さん方は英語はもちろんのこと、もうすでに一つや二つの外国語に堪能な人ばかりだろう。でなければこんな結論になる筈がない。しかし私のようなムカシ人間は、そういう人を尊敬こそすれ、そんな人になりたいと思う人が何パーセント居るのか。もう少し付け加えれば生涯外国語と縁をもたなくていい人が殆んどではないのか、と思う。
外国語は自分の将来を考えて、必要になりそうな人は是非やるべき、口悪く言えばやりたい人がやれば-少々言い過ぎか。個人的にはせめて小学三年からというのはやめてはしいのだが-。正規にはいってきたらどの教科を減らすのですかな。

私は昭和十年中国生まれで戦後に引揚げてきた。その上日中国交回復後は、五十回近く中国に行っているのに自慢じゃないがひとことも中国語が喋れないし覚えようとも思わない。全く不自由を感じないからで、わずかに覚えている中国人との子供同士の喧嘩言葉は、後日日本で中国語に堪能な人に聞いたところ、汚く相手の親をなじることばですよ、と。そんな厭なことばをわけもわからず大きな声で叫んでいた。

ここまで書いたところで、いつも藤岡志龍氏主宰の「書粋」の中に挿入されている小さなメモ(私は歳言と思って楽しみにしている)に昨年の11号を見ての感想だろうか「漢字検定で、例えば活字通りに「訥」と書かないといけない、「(言ベンに内)」は×。また英語教育奨励は日本が骨抜きにされる予兆」だとも。「日本は本当にどこへ行くのでしょう(主趣)」とあった。
全く同じことを考えておられたわけだが、わが意を得たりなどと喜んでいる余裕など全くない。国字・国語の崩壊、日本文化の崩壊、ひいては日本の崩壊にまで話は続いて行く。

書家を任じている私は当然この先に続くであろう「書」の危機にまで触れたかったのであるが、問題が小さすぎて、一蓮托生、その中の一粒に過ぎないと思って引っ込めることにした。それだけ日本の動き、世界の動きは大きく激しいのである。
「音楽・美術」などの芸術が潰れることは決してない。ただ各地特有の文化が廃れて全てが西欧化することに全世界が突き進んでゆくだろうということ。ネット社会は、悪意はないとしても、せいぜい世界を二つか三つのことばにしようとしているのではないか。

江口大象 (書源2015年1月号より)

 
   

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