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書の行方の序文

展覧会出品用の参考手本を送ってもらって一字か二字抜けていたとする。
指摘されても絶対書き直さなかった高名な先生が居られた。「すみません」といってすぐに書き直すのは私。高名な先生の話は又聞きだが、すでに数十年前に亡くなられている。すぐに書き直す私は「お送りしたものとは随分変わったものになると思いますけどいいですね」とことわった上で努めて早く送る。送られた方はびっくりする。一行の字数が違ったり、行草が入れ替わっていたりして、全く違う手本が目の前に現われるからである。

書き直さない先生も、すぐ書き直す私も、所詮根っこは一つで、「一字や二字自分で工夫して入れなさい」「手本は参考ですから書きにくいと思った字は字典を見て大いに変えて下さい」ということ。事実同じ文句を一センチも違えずに書けないし、書く気もしない。当の先生が出来ないことを門人が出来る筈がない。
私はたとえ半切十四文字でも一、二字意識的に変えるよう努力すると、それだけで実力がつきますよ、ということにしている。まして展覧会用の多字数においてをや、である。「とんでもない。そんな失礼なことなどできません」という人はいないと思うが、もし居たとすれば、生涯真似だけで終わる人、でしかない。

臨書だって同じことで、かすれの一つ、割れの一つ、くっついているか離れているか、出ているか、引っ込んでいるかなどを丹念に真似することも大切なことではある。たしかに技術の向上にはなる。それをするな、とはいわないが、もしその古人が生きていて、もう一度書いたら全く違う字形、字配りになっているかもしれないのではないか。
それより臨書で大事なことは、当人がもう一度書いても同じように書きたいところだろうかとか、筆遣い、速度、筆管の持ち位置、正気、微酔、泥酔、執筆時の観客の有無などなどその他無限の状況推察。

第一どんな有名な古典でも、全ての文字が完璧かどうか、怪しんで見る必要がある。隋唐の楷書の石碑などは書き直しができるので話は別だが、狂草の名人など一画程度の増減は平気だし、北魏の楷書など各地方の名士から「こうだ!」といって教えられれば、それを信じて石に彫り込む。各地の方言のようなもので、ある意味どう書いても正しかったのではないか。
日本の常用漢字もだれが決めたか知らないが、たとえば天の一画目が長い字が日中の歴史上何パーセントあるのか。声の一画目もしかり。逆に親、新の五画目が長い字がいくつあるか。今中国の簡体文字に対する反省が出てきて、繁体文字に戻そうという動きがあると側聞するが、文化はそう簡単に後戻りできないと思っている。

書の行方を案ずる一文を書こうかと思って書きはじめたが、序文で終わってしまった。本文はずっと後日。

江口大象 (書源2014年9月号より)

 
   

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