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来年から老骨に鞭打って

 昭和54年2月、読売新聞大阪本社の婦人部で名村、加藤、清野の3氏に会い、4月からの連載を頼まれた。毎週1回婦人欄に書に関する記事を書いてほしいというもので、その日は引き受けて帰って来たが、多分いきなりではなく、それまで何回か打診があったものと思う。
 当時高野山大学の講師をやめてその年から奈良女子大学へ行っている。高校の教師はやめる直前。しかし「書源」の編集は昭和42年の創刊当初からかかわっていたし、小さな書塾も。初めての個展は昭和50年、40歳の時。「みなもと」の前身に当る「学生書源」は昭和56年創刊で、そのころはすでに準備にはいっていた。若かったのだろうが、寝る時間はあまりなかった。
 そんな中での連載依頼で、私の長く続く頭痛時代はこの前後の10数年間ぐらいから始まっている。その頃に比べると今の忙しさは庇のようなもの。

 題名を「暮らしの中の書」とした。
 当初1年間の約束で始まったが、早速それが2年になり、題名を「書を楽しむ」に変えてもう1年。そこでは初歩の「一十百千」からいくつかの臨書、ペン字、焼物、最後は看板の書き方までを超スピードの1年間で終わらせたのでこれで終了のつもりでいた。
 ところが昭和57年の2月だったか、今度はちょっと模様を変えて「わかりやすい書道史」をやってほしいとの申し入れがあり、このときばかりは本気になって「やめたい」旨のことを新聞社近くの喫茶店で縷々言ったのだが結果的に押し切られて受けてしまった。それから2年。私の毎週1回の連載は都合5年間も続けさせてもらえたことになるのである。しかしこの忙しい毎日の中で、中国には10回、個展は3回。遊ぶことはそれはそれなりにやっている。中国へ行くときなど、当時は今と違って10日間ぐらいかけていたので、週1の原稿は2、3回分をまとめて持参してからでなければ出発させてもらえなかった。

 さてここまでは前段。
 この最後のシリーズ、甲骨文から始まった書道史「続・書を楽しむ」は、昭和59年の1月ごろだったか、突然係の人からこの辺で打切ってほしいとの申し出があった。言われた当時は米芾を4回で終ったころ。さて宋代の次は元代だけど、大した人はいないし、などと呑気なことを考えていた時だった。理由はうすうす感じていたものの、少なからず慌てた。考えられる理由としては、毎日書道展から関東関西の主に伝統派と稱される書人が分かれて「読売書法展」を結成した時期と重なる。昭和58年12月の書芸院展審査会場でそのことを告げられた。書芸院は全員読売ですよ!と。
 慌てた結果、ならば最終は好きな王鐸で終わらせよう、しかしいきなり米芾の次に王鐸というのも不自然、「趙子昂」でも入れてからにするか。王鐸は3回にさせてもらった。終了は59年4月。

 ここまでが序文の前段。
 というわけで「続・書を楽しむ」は実のところ米芾まででプツンと切れている。趙子昂を1人入れたとしても、そこから王鐸はいかに何でも飛躍しすぎ。約100年、米芾からだと400年間も間抜けになっている。それではいかん、プッツンしてから約30年。思考能力が極端に衰えた80前の今ごろになってなぜ—。これを薦めたまわりの者は、ボケの防止にでもなるんじゃない、などといっている。

 大した資料はない。たとえあっても読む気せず不十分な資料と希薄な知識で、大いに私見と私情を入れて書かざるを得ない。いろいろと間違ったことを書く気がするが、読者の皆さんからのご指摘を冀うのみ。
 来年の1号から「古典を面白く」という題で気軽にさせていただきます。もちろん不定期。

江口 大象 (書源2013年12月号より)

 
   

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