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悪あがき

 「私は間違っていない」と確信する人をどうも好きになれない。もしかしたら間違っているのではなかろうか、と常に思っていなくてはならないと私は思う。そう思いながら私自身もいささか心もとない。
 しかし考えてもみよ。人は皆いろいろの悩みを抱えながらも真剣に生きて生き抜いて、好むと好まざるに拘らず生涯を完結する。だんだん意固地になって一生を終える。

 「歳をとったら丸くなる」というのは嘘である。そんな人もいるだろうがたいていは我儘になる。ある人日く、今ごろになって夫婦喧嘩、出て行け離婚だと叫ぶ人がいると。今まで穏やかだった先生が、門人に対して突然理不尽なことをいう事例も多いと聞く。
 傍迷惑なことこの上ないが、しかし芸術家として長い目で見れば大した問題ではないともいえる。認知症は論外として、自説を通す、晩年我儘に生きる、のは別に–その人の人生なんだから–。

 人生面白いなと思う。たまたま書道界にはいって、書道界のことしか知らない私(それもよくわかっているとはいい難い)であるが、その狭い世界の中でもいろいろある。世界情勢も日本の政界も目まぐるしいが、小さな書道界でさえゆっくり変化している。「時代」とはこんなものかと最近つくづく思う。
 書風が全く変化しない書家と激変する書家と、どちらも面白く見ている。が、この書家はこれからどう変化してゆくのかを期待させるものの方がより面白く見られる。依拠する古典を変えて変化することもよい。しかし晩年と思われる歳になってもコロコロ変わる書家は一体どうなるんだろう、という目で見る。しかしそれも人生か。

 もう少し書こう。晩年、いつごろからを晩年とするかはその人の寿命で見る、いわゆる結果論で見るのが普通の見方だろうが、まあ一般に70歳を過ぎたころと考えてみる。
 その70歳を過ぎたころから作風が収斂する書人が多い。多少手足が不自由になることも手伝って書風が固まってゆくのである。老化、風化は自然の摂理。いってみれば、これが一番まともな変化なのかもしれない。
 私は80歳以降を晩年にしようかと勝手にそう思っている。今すでに私の書風は固まりかけているが、できることならあともう2、3年悪あがきをさせてもらいたい。

江口大象 (書源2012年10月号より)

 
   

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