投稿日: 2011-07-04
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
人の身体には人それぞれのリズムがあって、歩き方もしゃべり方もその人独特、たとえそれが悪くてもなかなか直らない。直すのにはとんでもない努力がいる。まず初めと終わりの礼儀にはじまって食事中の姿勢、速度、箸の持ち方、食べもののほおばり方。食事だけをとっても数え上げればこんなものではないだろう。
それと似たようなものに筆の持ち方がある。しかしこれも結構努力が必要、というより、第一どれが正しいのかさえわかっていない中での努力である。最低限守るべきものは何か、さえ指導者によってまちまち。現役の書人も含めて、日中書人上位百人ほどの執筆法を、できることならビデオで見たいものだと思う。
スポーツ選手が試合後のインタビューなどでダラダラしゃべっているのを見せられると、さっきまでの機敏な動作は一体何だったんだと思わされることが多い。しやべりと動作は一体、と思っている私にはまことに不思議なひとときになる。それもなぜか女子選手に多い。
書人はどうだろう。私が知る限りでいえばしゃべり方と書風は案外一致していると見ている。重くはっきりとした口調の書人はいても、ダラダラとしゃべる人はいない。そんな人は書をしないのかどうか、その辺は確かめていないが、ともあれメリハリは効いている。歴史に残っている書作品にダラダラとしたものはない。
書はそれだけ日常茶飯事のこまごまとした動作がそのまま出る怖ろしい芸術であるともいえる。
もう少し気をつけて書作品のリズムを見る。ゆっくりしゃべる人は運筆も遅い。当然その反対もある。しかしそれはツボを押さえておればいいということだけで、書の良し悪しにはさして関係ないようだ。ただ速く書いたがための「上すべり」「飛ぶ」「浮く」となると問題は又別。私自身のことをいうと、この辺に大いに問題がありそうなのだ。
私はものごとを飛ばして考える癖がある。途中は頭の中で処理して、その結果の結論だけをしゃべって相手の反応を見ることが多いのではないかといつも反省しきりである。これは書作品にも表われていて、次のことを考え過ぎたがためのおざなりな終筆がよく見ると散見される。
書の醍醐味の大きな要素として「上下左右の文字位置や文字の凹凸、紙の切れ目などのことを考えながら書き進める」ことがあるのだが、かといって次の字のこと考えて終筆がおろそかになることはあってはいけないことである。
私自身のしゃべり口調も注意しているにも拘らず支離滅裂に近い。たまに講話のオコシの校正をさせられることがあるが、本文より訂正部分の方が多いくらいで真っ赤になる。
私に課せられる課題は、せめて紙との抵抗を味わいながらゆっくりと運筆をすること、だろうか。もうひとつの課題である。メモの文字の乱雑さを改めることはもう諦めた。
とちりもせず、流れよく語尾まできっちりしっかりしゃべるニュースキャスターのメモの字を見てみたい。
江口 大象 (書源2011年7月号より)
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