文字サイズ

烏からの連想

珍しいことに大阪で3月3日に雪が降った。2月中ごろには2度も翌日まで残る積雪があり、わが庭の雪景色を写真にまで収めた。今年の冬は寒い。2日前大阪市立美術館で日展大阪展の作品解説をさせてもらった折の館長室での話。

一週間ほど前に烏が一羽死んでいましてね、鳥インフルエンザではないかと、結果が出るまで大変だったんですよ。陽性だった場合のシミュレーションをしたんだが、美術館、天王寺動物園はもちろんのこと、半径10キロ以内というと長居公園まではいるんですね。皆閉館閉園です。自然死だったん
で、ホッとしました。私の小さな書斎からわずか100メートルほど向こうにある長居公園の方をぼんやりと眺めている。公園は見えないが烏の群舞はよく見える。
3月4日午後5時。今日はいやに烏がうるさい。リーダーらしき1羽が何かひと声声高に鳴くと、あとに続く数百羽がてんでに鳴くといった具合だが、大きく円を描きながらの行動なので、どこかのシュプレヒコールよりもよほど統制がとれているように見える。繁殖期なのかとも思う、2羽が激しく空中でもつれ合っている。

小学校入学前の6歳の頃、私は中耳炎の手術をした。父は「そのうち治るだろう」的な考えの人で、母が心配してもあわてる風はなかったらしい。しかしだんだん進行して顎のあたりまで腫れが広がったとき、さすがに病院へつれて行かれ、医者の方があわてて手術をした。
当時の手術が今とどれくらい違うか知る由もないが、ともかく腐った右耳の裏側の骨を金槌と聖で削るときの痛さはただごとではなく、頭蓋骨が今にも割れそうでこの世のものとは思えなった。麻酔もなにもあったものではない。私は叫んで小便を真上に飛ばした。医者はオーといって飛びのいた。横向きになって手術を受けていた筈なのになぜ小便が真上に飛んだのか今もって不思議であるが、私には一条の線が確かに見えていた。
その病院の窓から毎夕見ていたのが烏の乱舞であったのである。長居の烏の群舞を見て今日ふとその当時のことを思い出した。
古い建物であった。壁やベッドは汚かったが、大きな窓から見える数百羽の烏の舞は退屈な病院生活の唯一の楽しみであった。水平尾翼の向きで左右自在に方向転換できることや、宙返りしながらの急降下、ときおりはぐれ烏が一羽で大胆な別行動をすることなど。

中国天津での話である。父親のこういう勝手な自己判断、子供を含めた他人へはほとんど何も指示を与えないとこらあたりは私の性格に少なからず影響を与えているように思えてきた。よきにつけ悪しきにつけ父親のこんな姿を見てきたことが、今の私の性格の一部になっているようだ。今考えてみるに、私たち子供の進路について父親からの意見は、なにひとつなかったように思う。母親も黙って見ている方であった。 それを今ありがたく思っている。

江口 大象 (書源2011年5月号より)

 
   

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です