投稿日: 2024-05-14
カテゴリ: 未分類
川村 龍洲(2024年6号)
狩人の「あずさ2号」という歌からは、先ず信州を思い浮かべるというが、新宿発松本行きの
列車名。但し〝下り〟なので奇数号でなければいけないのだということを最近知った。
小生にとっての列車は何と言っても「きそ号」である。昭和45年5月、小坂奇石先生に入門し
てからの月一の大阪通いは、長野駅発大阪駅着の夜行列車。夜9時過ぎに出発し翌朝の7時前に
大阪駅に着く。そこで驚いたのは駅内の喫茶店が開いていたこと。当時の長野市内の喫茶店は早
くて9時で、多くは10時開店だったからである。まずモーニングサービスのコーヒー一杯とトー
ストが朝メシ。環状線で天王寺へ。阪和線に乗り換え南田辺駅まで長野からの乗車券が使える。
それでもまだ先生のお稽古には早すぎるので、南田辺駅前の喫茶店で時間調整。今度は睡魔が襲
ってきて熟睡。慌てて先生のお宅に着くと、はや数人の先輩が居られご自分の番が来るまでは大
ぶりの蒼龍硯で墨を磨っていた。私語は無く、聞こえるのは入室と退出の挨拶のみ。
自分の番になり米芾『復官帖』の半紙臨書四枚を見て頂く。「あかんね」或いは無言での添削。
所要時間およそ五分。さあ、往復で買ってある帰りの夜行列車まで優に十時間以上は有る。こう
して大阪・奈良・京都・神戸の美術館と博物館をまわることができた。今から思うと二十代後半
の時に観た名品の記憶が自分の無形の宝物になっている。こうした状態が二年ほど続いた。
ある時、床の間に森春濤の詩書軸が掛っていて「春濤ですね!」と申し上げたのがきっかけで
戦前の東方書道会の話になり、小一時間ほど添削が中断した。その後は小坂先生から、これはど
うじゃと見せて頂けるようになった。橋本海関・前田黙鳳、はたまた〝放屁先生〟こと村瀬太乙
の飄逸な画軸等、実に贅沢な時間を過ごさせて頂いた。が、数年後小生のところで添削が長時間
中断するので、帰路を急ぐ御婦人の先輩方には御迷惑を掛けていたことを知るようになる。
稽古イコール加朱添削というのが通常だとは思うが、本当は、師匠の思い出話や所蔵のお品を
通して多くのものを学ばせて頂くのが、稽古の目的ではなかろうか。
コメントを残す