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言い訳

私が年賀状を突然書かなくなったのは六、七年前からか。それ以来一枚も書いていない。先輩の先生方にはもちろんのこと、同輩や門下の方達にも失礼極まりないと思いながら、やめた年の胸のつかえがとれたあの爽快さが忘れられず、本当にそれきりになってしまっている。それまでは多分三日ぐらいかけて千枚ほどを書いていたような気がする。

しかし勝手なものでいただくのはうれしい。毎年二、三十枚はファイルに入れて溜め込んでいる。いつか暇になったらゆっくり見ようと思ってのこと—。
手紙も滅多にしか書かない。書いても年に数回か。書かねばならないと思われるものでさえ気が重い。そのたびに家内から「書家のくせに」と言われ、返事も出来ない。書家とそれとは関係なかろうにと、ひとりブツブツいいながら—。
ここまで書いたあたりで、数カ月ほど前の「週刊新潮」に五木寛之氏の「筆不精という病気」があり、全く私と一緒じゃないかと思いながら読んだことを思い出した。

彼も「作家のくせに」である。彼は自分の筆不精は直らない病気だと自己診断を下している。私も病気かもしれない。
私は最近小さい字が書けなくなって、というより面倒くさくなって二八サイズのタテ四行ものの手本とか、短歌一首を折手本に書くこととか楢書の折手本などは、年賀状中止とはぼ同じ時期にやめさせてもらうことにした。
目上の先生方から賀状をいただいたり、時には毛筆で長文の手紙をいただくこともあり、うれしいやらびっくりするやら、恥じ入るやら。こんなことではいかんと、意を決して書く事もある。作品を書くときは楽しいのだが、手紙はどうも苦手である。
いまふと閃いた。作品を書くときのような気分で半切を横に使って中字ぐらいで書けば—と。
しかしやはり失礼か—。あと五年、八十五歳になったらそれでもいいか—などなどつまらぬことが頭の中をかけめぐっている。要はキチンとしたものを書く気がなくなった、というだけのことではないか。
老化?老化の一現象ですよ、といわれそうな気がしてきた。「閃き」なんて呑気なこといっている場合じゃない。

つい先日、いつも来てもらっている整体師から過日マンピツに書いたようなことをいわれた。お尻の肉がねえ—の話である。頭の方はまだ寸前で止まっているのだろうか。
ついでにいわれた。歩くときはいつものダラダラでなく、ピント背筋と膝を伸ばして両手を振ってサッサッと。
ちょっと無理。これと賀状を書かなくなったことや筆不精とは何か関係がありそうな気がしてきた。でもやはり今後とも書く気になる気がしませんなあ—。
こんな頑固さも老化の一種ですかね。平身低頭謝らせて下さい。

江口大象(書源2015年12月号より)

 
   

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