投稿日: 2015-11-02
カテゴリ: 巻頭言(江口大象)
作品と実用の文字とは常に一致させてほしいと願っている。それは書人としてあたりまえのことだろう。全く違う人を見るとがっかりする。ペンでも鉛筆でもメモ一枚を見れば書をやった人かどうかは一目でわかるように書けばよい。上手下手は問題外。
何かの古典を臨書するとしよう。何でもかんでも見境いなく臨書するのは六十代までの若い人のすること。もう七十も八十にもなって今から書風を変えますなんていっても、失敗するというか下品になるのがオチ。一部を少しずつ変えてゆこうとするならまだいい。いいというか奨励したい。そんな風にして生涯自分だけの書風は出来上がってゆくものだから-。しかし全面的に〇〇にします、というのはやめた方がよい。いくら憧れの古人であっても二番煎じはいけない。最低限その人より巧くはならない。
今勉強している古典は何のためにしているのか。筆遣いを直したいため、字形の一部をちょっと拝借したいため、骨力の養成のため等々。一般的にいえば臨書は品位を少しでも上げるためなのであるが、その前に自分の作品の品位を常に自覚しておく必要がある。上手下手ではなく品の上下を客観的に確かめられる目を持っておくべきで、展覧会などで自分と左右の他社中の人の作品と比較するところからはじめれば、年々目は高度になるに違いない。もう一度いう、品位は技術の上下ではない。
小さな幼児より品位の勝る大人はいない。生まれたての王義之や平安のかなに戻るのは諦めた方がよい。あれこれ智恵がつくたびに少しずつ品を落とす人間と同じく、明清の書も江戸の書も、それぞれ各人の差はあるにせよ同じ流れの中で品を落としつつある。そして今も—。
さて話を元に戻すと、折角見事な臨書をしても、その臨書の痕跡すら見せない創作作品を目指すのもわからない、又反対に自身の創作作品の中に古典そのままのそっくりな文字が散見されるものも—。
臨書を何のためにしているのか、自分でも疑問に思わないのであろうか。時代に即応して変化するのはあたりまえのことで別段不思議な現象ではない。しかし突然の変異はどうだろう。
今年の三月の文化欄、毎月読売新聞に一回載る管原教夫氏のテーマは「臨書は創作の出発点」で、<臨書よりもその書風で書く倣書を経て別の古典を入れたり自分流の書き方を加えたりして自分書風ができる。このように臨書は創作の源であり出発点でもある>と結んである。全くその通り。
しっかりわかって臨書をしよう。
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