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陳腐になるな

 小学校までの歩いて5分くらいの間に看板屋さんがあって、銀行や商店の看板、ときには映画館用の俳優の顔なども書いていた。面白くてじっと長い間しゃがんで見ていた。
 小5の最初の夢は看板屋さんになることだった。しかしもうそのころは八百屋をしていたので八百屋の跡とりが最有力だった筈である。

 西瓜は当時1個売りしていた。その包丁を入れない丸のままの西瓜の食べごろを見つけるのがうまくて、お客さんはたいてい私を指名した。右手の中指爪側で軽く叩くと、ちょっとした音色の差で中身の熟れ具合がわかる。ほどなくして西瓜はふたつに切ったり、井戸水で冷やしたりして売るようになるのであるが、急に慌しくなったのは高3の秋のころで、母が突然「大学に行きたかったら行ってもいい、ただし国立、浪人はダメ」といい始めたから-。今のことは知らないが、当時国立は学生寮はタダ同然の寮費、授業料も奨学金をもらえば-という時代であった。

 だから私の受験勉強は高3の秋からである。書道にしか自信がなかったので実技試験のある学校。当時書道科は他にもう1校新潟にあるだけだったように思う。しかも東京学芸大は実技の配点がよかったので、親戚もいることだし東京に決まり。
 私がもしあの年の大学受験に失敗していたら、母親が引き揚げ後に始めた八百屋を継ぐことになっていた。合格通知がどこから来たのか、誰からこの話を聞いたのか未だにはっきりしないが、覚えているのは市場の中でそれを聞いて、母親と一緒に飛び上がって喜んだことである。どうして家に帰ったのか覚えがない。青果市場で仕入れたリヤカー一杯の重い野菜を誰がどうして家まで運んだのかさっぱり覚えていない。

 人生が変わるというのはこんなことで、私の本当の書道人生はここから始まったのである。しかしここで書いておかなければならないことは、「書家」になるなどとは露ほども思っていなかったことで、それは卒業して教師になってからも、日展に入れてもらってからも、である。書の面白さには目覚めていたものの書にのめり込みはじめ、「書」を業とすることになるかもしれんと思いはじめたのは「書源」の編集をさせてもらったころではないか。今振り返ると、あれこそがまさしく「人生の転機」 であった。

 ここまで書きながら、これはどこかで書いたことがありそうな気がしてきた。まあいい。自分の出自の悪いことを言いたかっただけ、そんなことはどうでもいいと言いたかっただけ。
 「芸術」はその人の中で常にミキサーにかけられるもの、常に新鮮なものであり続けなければいけないと自分にいい聞かせている。陳腐になるな、いくつになっても変わり続ける努力、むずかしいことですけど。願わくは手が不自由になっても常に新しい境地を-。
 未だにあのころの八百屋仲間の同級生が、佐賀から大阪まで展覧会を見に来てくれている。

江口 大象 (書源2013年11月号より)

 
   

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