投稿日: 2011-08-14
カテゴリ: 講演会
初めにお目にかけますのは、「奇石書」 と書いてありますね。これは小坂先生が、昭和23年に日展に出した作品です。(B)
これは日展の書の第一回展です。実を言いますと、この作品は今、行方不明です。それで、私のうちにあるのが右側の作品です。これは同じ小坂先生ですけども、最後の二点になって、どっち出そうかと迷われた。迷うた結果、残った作品が、先生が亡くなられて十年ぐらいしてから倉庫の中から出てきまして、それを私がもらった。もらって今表具してうちにあります。(A)
これ見たらわかるでしょう。同じ人…2点の作品写真だけど、右が悪くて左がいい。先生47歳のときの作品です。
あのね、まあ、簡単に言いますと、この「中」が失敗だわ。これは太すぎ。(右の作品)
ところが、日展作品の失敗は、「千里夢」あたり。部分的にはいろいろありますけれども、私のうちに小坂先生の、思い出深い作品があるというのが大変うれしいことです。
実は、小坂先生の日展作品をなぜわざわざ見せるかと言いますと、この作品が、「書学」という雑誌に出ていたんです。この雑誌は、小坂先生の先生である黒木拝石さんが、空襲で熊本に疎開されて書学という雑誌を出されていました。その雑誌の表紙裏にこれが出ていた。
その頃、私は書道部におりましたので、書道部の倉庫の中から古い月刊雑誌がいっぱい出てきましたんで、その中に「書学」を見つけたんです。県展に出すのにどれにしようかなと思ってですね、それで、これを選んだんです。これがいい。私の息に合うてる。呼吸に合ってると思ったんですね。私16歳。
それを見て書いた私の作品。あれを一生懸命見て書いたわけですよ。さっきの作品と並べたら悪いね。先生は一枚の紙でしたけど、私は半分に。半切の紙をついだ。
右のが私。左を見て、右を書いたんだ。そしてね、例えば、三行目の一番下に「樹」という字があるでしょう。それが、私のでは、次の行の上になっていますね。そして、行書が草書になってますね。そんなふうにね、行立てとか書体とかいうのも変えていいわけですよ。
この作品が、あのころはレベルの低かったといわれる佐賀県展で、今は違いますよ、いい成績をもらったんですよ。もらったために、もしかしたら私は字がうまいのかなと思ったんはこのときです。このときは、書家になろうなんて思うてなかったですよ。思うてなかったけれども、うれしかったですね。
昭和32年に、第一回現代書道二十人展が始まったわけですけれども、そのときに、先生
が56歳で参加して、この高青邱の詩を書いたんですね。このころまだね私、学生だったか
らね、実際見に行ったわけですよ。見に行って感激しましたね。
これは今度の大阪市の美術館でやります璞社五十回展にこの作品が出ます。この作品は今、川村龍洲さんのところの、驥山館にあります。借りてきました。これも出品する予定です。
これは、私が七十何ぼになってから高青邱の詩を四枚に書いたものです。前述の作品(D)と同じ詩です。
今度の璞社五十回展は、意義ある展覧会ですから、私が十代に書いたもの (C) と、小坂先生が47歳の時に書いた日展作品(B)を並べて、三点出そうかと今思っています。
これは去年の璞社展の作品ですね。これは一つの大きさが聯落です。だから、一枚の横が135
センチあると思います。それで縦が50センチぐらいかな。
作者は、広瀬旭荘という大分出身の漢詩人です。
これは第41回日展(平成21年)の作品です。璞社展より日展のほうが緊張しますね。
ちょうど15分延長。約束どおり。今日の話はこれで終わります。どうもありがとうございました。(拍手)
(平成22年11月14日 佐賀県文化団体協議会 発足50周年記念 江口大象講演会「限りない書の魅力」より)
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